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資料來源 http://home.att.ne.jp/sky/kakiti/shisaku.html 括弧內文字 標題後為網頁中小字 段落後則為註釋 信長公記 巻十 天正五年(1577年) 雑賀攻め~松永久秀敗死~中国征伐開始 天正五年 正月2日、信長公は三州吉良での鷹野を終えて安土へ帰城した。そして同14日に上洛し て二条妙覚寺へ入った。在京中は隣国諸将や播州の浦上遠江守宗景・別所長治、および 若州武田氏といった面々の参礼を受けつつ天下の諸政を沙汰し、25日になって安土へ下 った。 1、雑賀征伐  (雑賀御陣の事)  2月2日、紀州雑賀①の三緘衆と根来寺②の杉の坊が織田方へ内応を約束する旨を伝 えてきた。この報を受けた信長公はすぐさま出馬を決め、13日に動座する旨を諸国に触 れさせた。信長公は8日には京を出て現地へ向かう予定であったが、雨のため延引し、 9日に上洛して二条妙覚寺に宿陣とあいなった。  一方信忠殿は尾張・美濃の人数を率いて9日に岐阜を出、その日は柏原に陣を取った 。そして翌10日には蜂屋頼隆居城の肥田③へ宿泊し、11日になって守山へ入った。時を 同じくして伊勢からも織田信雄卿・織田信包・織田信孝らの諸勢が出陣してきており、 街道上の瀬田・松本・大津にはこれら尾・濃・江・勢四ヶ国の大軍がひしめき合って宿 陣した。このほか五畿内の衆は言うに及ばず、遠く越前・若狭・丹後・丹波・播磨の衆 までが京表へ出勢し、信長公の出馬に従う時を待っていた。  そして2月13日、信長公は満を持して出京した。その日は淀川を越えて八幡④に至り 、ここに陣を取った。翌14日はまたも雨のため同地に逗留することとなったが、この間 に東国の人数は風雨を凌いで槙島・宇治川を渡り、先兵すべてが信長公のもとへ参陣を 果たすことに成功した。信長公は15日になって八幡を出て若江に入り、翌16日には和泉 国香庄⑤に着陣した。  このとき和泉の一揆勢は貝塚⑥の地の海手に砦を構え、舟を引きつけて立てこもって いた。織田勢はこれを一挙に攻め干そうとし、17日には先陣衆が貝塚に到着して砦へ攻 めかかった。しかし敵は夜半に船に乗って砦を退散してしまった。先手衆はやむなく逃 げ遅れた敵勢少々を討ち取って香庄に引き返し、首を信長公の実検に供した。同日信長 公のもとへは根来杉の坊が参礼に訪れ、雑賀表一掃のため働く旨を誓約した。  18日、信長公は佐野の郷⑦に陣を移した。そして22日になって志立⑧へ入り、ここか ら軍勢を浜手・山手の二つに分かって進軍させることとした。このうち山方へは杉の坊 ・三緘衆を道案内として佐久間信盛・羽柴秀吉・荒木村重・別所長治・別所重宗・堀秀 政が進み、雑賀の内へ乱入して諸方を焼き払った。  これに対し敵方は小雑賀川⑨を前にあて、川岸に柵を構えて防戦に当たった。織田勢 ではこれを打ち破るべく、堀秀政勢が一斉に川へ打ち入って対岸にせまったが、高い岸 壁に阻まれて岸へ馬を上げることもできずにいた。これを目にした敵勢は得たりと堀勢 へ砲火を浴びせたため、堀は良き武者数多を失って退かざるを得なくなってしまった。 その後山手勢は川を境に攻囲を固め、その先陣の通路を警固するため稲葉一鉄・氏家直 通・飯沼勘平が紀の川の渡り口に陣を布いた。  一方浜手へ遣わされたのは、滝川一益・明智光秀・丹羽長秀・細川藤孝・筒井順慶お よび大和衆らの諸勢であった。  これら浜手衆が向かった淡輪口⑩は、その先が道一筋しか通わぬ節所となっていた。 このため浜手の将領たちは道を進む軍勢を籤引きで決することにした。そして籤引きの 結果軍勢は三手に分かれ、籤に当たった細川藤孝と明智光秀の一手が中筋の道を進み、 外れた二手は道側の山谷へ分け入って進軍することとなった。  そのようにして浜手衆が軍勢を進めたところ、やがて防戦に出てきた雑賀勢と衝突し た。この戦闘には後から追いついた二番手の織田信忠・織田信雄・織田信包・織田信孝 勢も加わったが、その中で細川藤孝家中の下津権内が一番槍の栄誉を手に入れ、比類な き働きをした。下津は、以前にも岩成友通を組打ちのすえに討ち取る手柄を挙げた人物 である。  戦闘は織田勢の勝利に終わり、屈強の者数多を討ち取って諸方を焼き払った。軍勢は そのまま中野城⑪の攻囲に移った。  28日、信長公は淡輪に陣を移した。中野城の敵は信長公の着陣を受けて降伏退城し、 城は織田信忠殿が受け取って居陣した。信長公は2月晦日になって淡輪を発ったが、出 発の際に下津権内を近くに召し出して褒美の言葉をあたえた。諸人環視の中での栄誉で あり、面目・高名これに過ぎたるものはなかった。信長公はその日は野陣を張り、周辺 を駆けまわして戦地の地形を視察した。  3月1日、信長公は滝川・明智・丹羽・蜂屋・細川・筒井および若狭衆らの諸勢に命 を下し、鈴木孫一の居城を攻めさせた。攻衆は竹束を連ねて城へ攻め寄り、井楼を上げ て日夜の別なく猛攻を加えていった。そして信長公自身はいずれの方面へも動けるよう にと、山手・浜手両陣の間に位置する鳥取郷⑫の若宮八幡宮へ陣を移した。信長公はこ こから堀秀政・不破光治・丸毛長照・武藤舜秀・福富秀勝・中条将監・山岡景隆・牧村 長兵衛・福田三河・丹羽右近・水野大膳・生駒市左衛門・生駒三吉らを根来口へ遣わし 、小雑賀・紀の川方面に続く山手に陣を取らせた。 ( ①現和歌山市内 ②現和歌山県岩出町 ③現彦根市内 ④現京都府八幡町 ⑤現岸和 田市内 ⑥現貝塚市 ⑦現泉佐野市 ⑧現大阪府泉南市内 ⑨和歌川をさす。和歌山市 小雑賀を流れ紀の川に注ぐ ⑩現大阪府岬町淡輪 ⑪現和歌山市中野 ⑫現大阪府東鳥 取町)   2、舞踏作事  (内裏御築地の事)  このとき、京都には雑賀表の陣状が様々に伝わってきていた。そこで村井貞勝は戦勝 祈祷のため、またかねて進められていた内裏修復の完成祝賀のため、洛中で内裏の築地 の造営を行ってはどうかと町人衆に持ちかけた。洛中では上下ともこれを受けいれ、村 井貞勝の警固のもと早速造営が開始されることとなった。  作事は3月12日から各所で番を結成して進められた。現場では受け持ちの区画ごとに 舞台が設けられ、その上に花車・風流①で飾った稚児・若衆が出で立ち、華やかさを競 いあった。そして笛・太鼓・鳴り物の拍子を合わせて囃したて、老若とも興奮して舞い 踊りながら造営を進めていった。嵯峨・千本②の桜が今を盛りと咲きほこる春の時節の ことでもあり、人々は貴賎とも手に桜を手折っては袖をつらねて見物に訪れ、現場には 桜花の香りや舞台の燻香・衣香の香りが四方に薫じていた。内裏の住人である帝や大宮 人・女御・更衣らの御方にとってもこれほど面白い見物はなく、みな詩歌を詠じて御歓 喜されたものであった。造営は瞬く間に完了した。 ( ①飾り物 ②千本通、現上京区内)   3、仮降仮赦  (御名物召置かるるの事)  雑賀表には織田の大軍が長らく滞陣し、このため周辺一帯は亡国のありさまとなって いた。この状況に困じはてた土橋平次・鈴木孫一・岡崎三郎大夫・松田源三大夫.・宮 本兵大夫・島本左衛門大夫・栗村二郎大夫の七名は連署して誓紙を差し出し、信長公が 大坂表での事態に配慮を加えることを条件に降伏を誓ってきた。信長公はこれを受けい れ、彼らを赦免した①。  信長公は3月21日になって帰陣の途につき、その日は香庄に陣を取った。翌日も同地 に滞在し、ここで佐野村に要害を築くよう命令を下した。そして佐久間信盛・明智光秀 ・丹羽長秀・羽柴秀吉・荒木村重の軍勢を後に残し、杉の坊・津田太郎左衛門信張を要 害の定番に命じた。  信長公自身は3月23日に若江まで返し、ここで以下の名物を手に入れた。 一、 貨狄の花入れ 天王寺屋了雲の所持を召し上げ 一、 開山の蓋置き 今井宗久が進上 一、 二銘の茶杓  召し上げ これら三品の持主には代物として金銀が与えられた。  信長公は翌24日に八幡へ宿泊したのち25日に帰洛し、二条妙覚寺に入った。そして3 月27日になって安土へ帰城を果たしたのであった。信長公はその後しばらくを安土で過 ごし、7月3日には奥州の伊達氏が進上してきた鷹を受け取るなどした。 ( ①織田勢も戦況の膠着に困じており、雑賀勢の降伏は形だけで実際は停戦の成立に過 ぎなかった。)   4、二条御新造  (二条御新造御移徙の事)  閏7月6日、信長公は上洛して二条の新邸に入った①。 ( ①前年春(巻九第二段)に二条晴良邸跡に建て始めた邸宅が完成していた。)   5、前久殿阿世  (近衛殿御方御元服の事)  この時期、近衛前久殿より若君の元服を二条邸で行わせてもらいたいとの希望があっ た①。昔年より元服の儀は禁中で行うのが通例で、このため信長公も「その例に従うの が妥当」と再三辞退したのだが、重ねて要請されたため仕方なく応じたものであった。  かくして閏7月12日、二条邸で元服の儀が行われることとなり、信長公によって若君 の御髪が整えられ、また元服の職掌・式具も揃えられた。そして摂家・清華家および近 国の諸大名・小名の臨席のもと無事儀式がとり行われた。なお祝儀には御服十重・太刀 代一万疋・長光の腰刀・金子五十枚が贈られた。この式で信長公は大いに面目を施した のであった。  その後信長公は都にあって諸政を総覧したのち、7月13日になって京を下った。そし てその日は瀬田の山岡景隆居城に宿泊し、翌日になって安土へ帰城した。 ( ①近衛前久はこれ以前から信長に接近する態度をとっていた。元服した子は近衛信尹 (信基) )   6、手取川  (柴田北国相働きの事)  8月8日、信長公は柴田勝家を大将に北国へ軍勢を遣わした①。従った諸将は滝川一 益・羽柴秀吉・丹羽長秀・斎藤新五・氏家直通・安藤守就・稲葉一鉄・不破光治・前田 利家・佐々成政・原長頼・金森長近および若狭衆といった面々であった。軍勢は加賀へ 乱入し、湊川とも呼称される手取川②の流れを越え、小松村・本折村・安宅村・富樫③ など諸所を焼き払って在陣した④。  このとき、羽柴秀吉は届出もなしに突如陣を払って帰着してしまった。この曲事は信 長公の逆鱗に触れるところとなり、諸人は大いに当惑した。 ( ①上杉謙信の越中・能登出兵に備えるため ②原文は「添川(湊川)・手取川打越し」 と併記されているが、湊川は手取川の別名。誤記か ③小松・本折・安宅はいずれも現 石川県小松市内、富樫は現加賀市内 ④この後9月23日に手取川の戦いがあって織田勢 は上杉軍に惨敗するのだが、公記中に記述はない。)   7、人質哀歌  (松永謀叛並に人質御成敗の事)  大坂を扼す天王寺の付城には、定番として松永久秀と子の久通が入れ置かれていた。  ところが8月17日、父子は突如として叛逆し、天王寺砦を退去して大和国信貴山城① へ籠ってしまった。これに対し、信長公は松井友閑を遣わして「いかなる仔細によるも のか。よく存念を申し聞かせるならば、望むところを叶えよう」と問わせしめたが、す でに逆心した後のことであり、父子が釈明に現れることはなかった。  交渉の手切れを受け、信長公は久秀が供出していた人質を京で成敗にかけることを命 じた。そして矢部善七郎家定・福富秀勝を奉行に任じ、永原の佐久間与六郎方に預け置 かれていた人質の子らを京へ連行させた。質となっていたのは年いまだ十二、三才ほど の男子二人で、「死ぬる子見目良し」のたとえ通り、いずれも心・姿形に優しき風情を もった子らであった。  京では、子らは村井貞勝の宿所に留められた。村井は子らに「あす内裏へ走り、助命 を嘆願してつかわそう」と申し聞かせ、あわせて「であるから、髪を結い、衣装も美し く改めておくように」と伝えたが、子らは「それは有難きことを。とても助命は叶うま いに」と答えただけであった。さらに村井が「親兄弟へ文を書きなされ」と勧めると、 子らは硯を乞うて筆をとったものの「この上は、親への文は要り申さぬ」と言い、佐久 間与六郎方へ日頃懇切にしてもらった礼のみをしたため、そのまま村井の前を退いた。  そののち子らは上京一条の辻で車に乗せられ、六条河原まで引かれていった。河原に は都の貴賎が見物に集まっていた。その中で子らは色もたがえず落ち着いて西へ向かい 、小さな掌を合わせ、二人で声高に念仏を唱えながら処刑されていった。その哀れさは 目も当てられぬ有様で、見る物はみな肝を打たれ、聞く者は涙を止めかねた。  9月27日、信忠殿は松永討伐の軍勢を率いて出立し、同日江州肥田の蜂屋頼隆居城へ 宿泊した。そして翌日安土に入り、丹羽長秀邸に宿をとって翌29日まで逗留した。なお この9月29日戌刻、西方の空に稀にしか見られぬ客星のほうき星が出現した。 ( ①現奈良県平群村内)   8、細川兄弟功名  (片岡城攻め干さるるの事)  片岡城①には、松永久秀配下の森・海老名両氏が籠っていた。これに対し、織田勢か ら細川藤孝・明智光秀・筒井順慶および山城衆が攻め手に立った。  10月1日、織田勢は片岡城に攻め寄せた。このとき細川与一郎忠興十五歳と弟の頓五 郎昌興十三歳の兄弟は、いまだ若輩の身ながら城中への一番乗りを果たした。兄弟に続 いて他の者達も次々と城内へ飛び入り、守勢をまたたく間に攻め破って天守下へ詰め寄 せた。しかし城衆もここを一期と鉄砲・弓矢のかぎりを尽くし、郭外へ切って出、火花 を散らし鍔をも割る激戦を展開した。これにより城将の森・海老名をはじめ敵勢百五十 余が討死を遂げたのであった。これに対し細川勢は三十余名の討死を出したが、かわり に忠興・昌興兄弟が功名を果たすことに成功した。また明智光秀も手を砕き、屈強の侍 二十余名を失う粉骨の働きをした。  この戦で信長公は年端も行かぬ兄弟の働きに感じ入り、両名へ直々に感状を下された 。後代に至る名誉であった。 ( ①現奈良県上牧町内)   9、久秀往生  (信貴城攻め落さるるの事)  10月1日、信忠殿は安土を発って山岡景隆居城へ宿泊し、翌日槙島へ入った。そして 翌3日には信貴山へ押し寄せ、城を囲んで陣を据え、城下へ火を放ってことごとくを灰 にした。  なお同じ頃、北国加賀へ遣わされていた柴田勝家らの軍勢は国中の作物を薙ぎ捨てた うえで御幸塚①に城塞を築き、そこに佐久間盛政を入れていた。北国勢はさらに大聖寺 ②にも普請を施して柴田勝家の手勢を入れ置き、そののち10月3日になって北国から引 き揚げた。  10月10日、信忠殿は佐久間・羽柴・明智・丹羽の旗下諸勢を信貴山諸口へ配備し、一 挙に山上へ攻めのぼらせて夜戦を仕掛けた。松永勢も果敢に防戦したが、やかで弓は折 れ矢も尽きた。ここに松永弾正久秀は天守に火をかけて焼死を果たしたのであった。  ところで、奈良の大仏殿が焼け落ちたのは先年③の10月10日夜のことであった。これ は弾正久秀の仕業によるもので、三国に隠れもなき大伽藍は故なくして灰燼に帰してし まった。  しかしその因果は、今回の戦でてきめんに現れた。すなわち鳥獣でさえ足を立てるこ とが困難な高山嶮所の信貴山城へ、信忠殿は鹿角の大立物をかざして易々と攻め上がる ことができたのである④。そしてそれにより、日頃智恵者と聞こえた弾正久秀は詮なき 叛逆のすえに猛火の中で自死せざるを得なくなってしまった。一族・眷属の一挙焼死と いい、客星の出現といい、鹿角の立物といい、そして久秀の死が大仏殿炎上と同月同日 だったことといい、人々はこれぞ春日明神の所為であろうと舌を巻いた。 ( ①現石川県小松市内 ②現加賀市内 ③1567年、三好三人衆との騒乱による ④鹿は 東大寺とも関係の深い春日大社の神獣)   10、征西開始  (中将信忠御位の事)  10月12日、嫡男秋田城介信忠殿は上洛して二条妙覚寺に寄宿した。今回松永一党をす みやかに討伐したことへの褒賞として、信忠殿は朝廷よりかしこくも院宣を賜って三位 中将に叙せられることとなったのである。まことに父子ともに果報の至りであり、名誉 のほどは申しようもないものであった。叙任を受けた信忠殿は三条実綱殿の元へ伺候し 、祝儀の太刀代として黄金三十枚を内裏へ献じた。また三条殿にも御礼を贈った。  その後信忠殿は15日になって安土へ下り、信長公へ松永一党の討滅を報告した。そし て10月17日に晴れて岐阜へと帰陣を果たしたのであった。  こうして松永討伐が落着したのちの10月23日、羽柴秀吉の軍勢が播州へ向け出兵した 。  播磨へ入った秀吉勢は国内を夜を日に継ぎ駆けまわり、周辺諸豪ことごとくから人質 を取り固めることに成功した。そして28日には信長公へ向け、翌月10日頃までには播磨 表の平定が完了するであろう見通しを申し送ったのであった。この報告を受けた信長公 はその働きぶりに感じ入り、秀吉へ早々の帰国を許す旨を朱印状をもって伝えてきたが 、秀吉は「いまださしたる働きはなし」と考え①、但馬国まで進んで山口②の岩洲城を 陥落させた。秀吉はさらに小田垣氏の籠る近隣の竹田城③へも攻めかかり、これを退散 させた。そしてその跡に普請を施し、弟木下小一郎秀長を城代として入れ置いた。  こののちの11月13日、信長公は上洛して二条御新造へ座を移した。 ( ①北陸戦線離脱(六段)の罪をそそぐ目的があったとされる ②現兵庫県朝来町内 ③ 現兵庫県和田山町内)   11、鷹返る  (御鷹山猟御参内の事)  11月18日、信長公は鷹山狩を催し、狩りに先立って内裏へ参内した。供に従う者はい ずれも思い思いに姿を飾り、頭には趣に富んだ頭巾をのせて興を引き、狩杖に至るまで 金銀泥を施して綺羅を飾り、その壮麗さは言いようもないほどであった。  従う供衆のうち、先手第一段は弓衆百人ほどがつとめ、いずれも信長公より下された 虎の皮の弓空穂①を付けて歩いていた。また第二段には鷹十四足を据えた御年寄衆が続 いた。そして信長公自身も鷹をかたわらに据えつつ、前後を御小姓衆・馬廻に囲まれて おごそかに進んだのであった。周囲を固める御小姓・馬廻の衆はいずれも華麗に着飾っ て光り輝き、ありとあらゆる風流花車を備えて美を競い、京の貴賎はそのあまりの美々 しさに耳目を驚かせた。信長公は日華門より参内して小御所御局の内まで馬廻を引き連 れて進んだが、このとき先手弓衆は内裏より御折②を賜った。かたじけなき次第であっ た。  信長公は鷹を天子の御目にかけたのち、達智門から内裏を出てそのまま東山へ狩りに 向かった。ところが狩場で折り悪く急に大雪が降りたち、信長公の腕から飛び立った鷹 は風雪に乗せられて遠く大和国郡の方へと流されていってしまった。  秘蔵の鷹のことであり、信長公は諸方をわけて鷹のゆくえを尋ねさせた。すると翌日 、大和国の住人越智玄蕃という者が件の鷹を保護して信長公へ進上してきた。信長公は 大いに喜び、越智へ褒美として服一重と秘蔵の駁馬を与えた。重ねて信長公が「ほかに 望みあらば叶えよう」と問うたところ、越智は当時闕所③となってしまっていた年来の 旧領の回復を言上した。すると信長公は旧領安堵の朱印状までも下されたのであった。 無上の沙汰であり、「禍福ハ天ニアリ」とはまさにこのことであるといえた。 ( ①矢入れ ②折り箱 ③所領が収公されるなどして所有権が離れること)   12、筑前奔走  (但馬・播磨、羽柴申付けらるる事)  11月27日、羽柴秀吉は熊見川を越えて敵方の上月城①へ攻め寄せ、近辺へ放火した。 秀吉はさらに近隣の福原城②へも小寺官兵衛孝高③・竹中半兵衛を差し向けて攻囲を開 始させたが、そこへ宇喜多和泉守直家の軍勢が城方の後詰に押し寄せてきた。この報を 聞いた秀吉は上月を出て宇喜多勢と戦い、敵足軽を追い崩して数十人を討ち取ることに 成功したのであった。  秀吉はそのまま上月に引き返して攻囲を続けた。すると七日目になって城兵が城主の 首を切って秀吉陣中へ持参し、残兵の助命を嘆願してきた。これに対し、秀吉は城主の 首は安土へ後送して信長公の御目にかけたが、上月に残った城兵はことごとく引き出し て備前・美作国境で磔にかけてしまった。そして後には山中鹿之介④を入れ置いたので あった。  その後秀吉は福原城をも陥れ、首数二百五十余を挙げる戦果を収めた。先般秀吉は北 国より無断で帰国して信長公の怒りに触れたため、西国でしかるべき働きをして罪滅ぼ しの手土産としようと考えていた。そこで夜を日に継いで駆けまわり、粉骨比類ない働 きをしたのであった。  なお同時期、信長公は京にあって諸政を総覧し、12月3日になって安土へ帰城してい た。 ( ①現兵庫県上月町 ②現兵庫県佐用町 ③黒田官兵衛。この時期は小寺姓を名乗って いた。以後は黒田官兵衛の名で表記します ④原文「山中鹿介」)   13、放鷹休息  (三州吉良御鷹野の事)  12月10日、信長公は三河吉良へ鷹狩のため安土を出立した。なお出立に際し信長公は 、近日中に安土へ上る予定の羽柴秀吉に但馬・播磨平定の褒美として乙御前の釜を与え ることを決め、留守の者へ秀吉が挨拶に参り次第釜を渡すように指示していた。有難き ことであった。  当日信長公は佐和山の丹羽長秀居城に宿泊し、次日は垂井に出た。そして12日に岐阜 へ移座し、翌日まで逗留した。さらに14日には雨天をおして尾張清洲まで下った。そし て12月15日、信長公は三州吉良で放鷹を行い、雁・鶴ほか数多の獲物を挙げたのであっ た。その後信長公は19日に岐阜へ戻り、そこから安土へ帰途についた。なおこの道中で 緩怠を犯した者があり、信長公はその者を手討ちに討ち果たした。そして21日には早く も安土へ帰城したのであった。   14、御嫡男殿御果報  (中将信忠へ御名物十一種参らせらるる事)  12月28日、岐阜中将信忠殿が安土へ参上し、丹羽長秀の屋敷に宿泊した。 このとき信長公は寺田善右衛門を使者に立て、信忠殿へ名物の御道具の数々を贈った。 下された品は、 一、初花肩衝 一、松花茶壷 一、雁絵 一、竹子花入 一、くさり① 一、藤波の釜 一、道三茶碗② 一、内赤盆 以上八種であった。そして翌日さらに使者松井友閑によって、 一、珠徳茶杓 一、大黒庵所持の瓢箪炭入 一、古市播州所持の高麗箸 この三種が重ねて下されたのであった。 ( ①釜を吊る道具 ②「道三」は医家の曲直瀬道三をさす) -- ※ 發信站: 批踢踢實業坊(ptt.cc) ◆ From: 218.166.61.247 ※ 編輯: Eiichirou 來自: 218.166.61.247 (05/19 10:31)