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AKB48黎明期を支えたファンの"夭逝" NMB48が歌い継ぐ「ライダー」誕生秘話 http://tinyurl.com/2ag5wkq 5年の活動で、関連グループを含め350曲以上のオリジナル楽曲があるアイドルグループ ・AKB48。その中で、唯一特定のあるファンをモチーフにした楽曲がある。それが2006 年8月から07年1月に行われたチームA3rd公演『誰かのために』の7曲目「ライダー」。 AKB48を活動10日目の 05年12月18日から応援し続けた故・福原浩文さんに捧げられた1 曲だ。  バイクが好きで"ライダー"の愛称で知られた彼は、連日AKB48劇場に通っていたが、 06年6月16日に劇場で倒れ、病院に搬送された後、7月 1日、不帰の人となってしまう。 32歳で夭逝した彼のエピソードは、ファンブック『48現象』(ワニブックス)で6ペー ジに渡って紹介されている。  そんなファンの思いが詰まった楽曲を含む『誰かのために』公演を、11年1月1日から 大阪・なんばを拠点に活動を開始するNMB48が披露することになった。そこで、福原さ んのご家族の許可も得た上で、彼の親友で同じくAKB48ファンのYさんに、福原さんとの 出会いから楽曲誕生の背景、年月を重ねた現在の思いを語っていただいた(以降、「」 内はYさんの言葉)。 「福原くんとは94年に指圧師の専門学校で会いました。お互い格闘技やアイドルが好き だったことから懇意になりました。翌年、福原くんはボクシングを始め、その後プロデ ビューも果たしています。ボクサーは引退しますが、それからお互い指圧師の道に進み 、05年12月に彼はAKB48と出会います。駒谷仁美さんと渡邊志穂さんの二人(現在は両 名とも卒業)を推していましたね。メンバーをあえて苗字で呼ぶ声援をしたり個性的な 面もあったけど、ほかのファンの方からもその熱心な姿勢は認められていたと思います 。メンバー全員にまめに手紙を書いていたし、『桜の花びらたち』の全国イベントでは 、北海道、金沢、大阪、名古屋などにも遠征。その時も、AKB48のハッピを着たまま飛 行機や新幹線に乗っていました。それは彼が周囲の視線を気にしない人間だったのでは なく、AKB48をより世間に広めたい一心だったからだと思います」  Yさんは福原さんに誘われて、06年1月6日にAKB48劇場に足を運び、それから一緒に劇 場に通うようになる。現在チケットは一般3,000円だが、当時は1,000円。しかも、ファ ンは多くても70人ほどしかいなかったという。だが、2月4日には初の劇場満員公演を迎 え、4月にチームKが発足し、チームAは2nd公演『会いたかった』がスタートし、次第に ファンは増えていく。劇場で知り合った共通の友人もできる中、06年6月16日は、Yさん にとって忘れられない日となる。 「その1週間前から福原くんは『風邪をひいている』と言っていました。6月16日は大江 朝美さん(現在は卒業)の生誕祭で、チケットが早く売り切れてしまったんです。徐々 にAKB48の人気が出ているのを実感しつつ、劇場には僕と福原くんともう一人友人が一 緒に来ていて、食事に行こうと彼を誘ったんですが『体調が悪い』と言うので、とりあ えず僕は友人と食事に出ました。そして劇場に戻ると、福原くんがトイレの入り口で倒 れていたんです。彼が『救急車を呼んでください』と言うので、劇場のスタッフにも相 談すると、迅速に対応してくれて、救急車を呼びました」  Yさんは福原さんの救急車に同乗し、東京医科歯科大学へ向かう。福原さんは脳内出 血の可能性があり、精密検査の結果、緊急手術を行った。小康状態となるが、再出血が あり、集中治療室に入ることになる。そんな福原さんの容態をAKB48サイドに伝えるか どうかは大いにためらったが、友人と相談し、最終的に6月28日、劇場側に報告。する と30日に、劇場支配人の戸賀崎智信氏が駒谷、渡邊のお見舞いメッセージが入ったMDを 手に福原さんを見舞った。だがその夜、7月1日未明に福原さんは亡くなってしまう。 「通夜は2日に行われ、戸賀崎さんがいらっしゃるのは事前に聞いていたんですが、駒 谷さんと渡邊さんも参列してくれました。本当にびっくりしましたし、心からうれしか ったですね。実はほかのメンバーも『行きたい』と言ってくれていたようです。僕は、 10年来の友人を突然亡くした衝撃が大きくて、しばらくは劇場に足が向きませんでした 」  そんな中、AKB48は当時行われていたチームA2nd公演が8月11日で千秋楽を迎える。次 の公演の準備が行われる中、Yさんには福原さんをテーマにした曲「ライダー」がその 新公演で披露されることが告げられる。 「正直、複雑でした。今だから言いますけど、最初は止めてほしいと思ったほど。劇場 に行っても『何で彼がいないんだ......』と思って、亡くなったというより、突然消え てしまったという印象でした。でも、僕も福原くんも好きだった漫画で、当時映画化さ れた『逆境ナイン』に『それはそれ これはこれ』という意識の切り替えを語った名台 詞があって、その言葉のおかげで、考え方を変えられましたね。久しぶりに入った劇場 は、1曲目の『月見草』からメンバーの靴音がやけに耳に残ったのを覚えてますね」  そうして披露された楽曲「ライダー」はさわやかな曲調で、遠い街に引っ越した友人 への思いを綴ったポジティブな曲となっていた。福原さんがファンだった駒谷、渡邊か ら歌い始め、大江、折井あゆみ、川崎希、戸島花、星野みちる(全員卒業/星野は Michiruに改名)、佐藤由加理、浦野一美(両名 SDN48に移籍)の計8人のユニット曲と なった。メンバーは公演期間中一度も涙を見せることなく、気丈にこの曲を歌いきった という。 「曲を聴くと辛い時期もありました。でも、ある日、戸賀崎さんから『戸島から伝言が ある』と言われて、『(劇場に)来るの、辛くないですか? 心配しています』とメッ セージをもらいました。これは極めて特別な計らいで、心強かったです。このころから 次第に曲の意味合いが自分の中で変わってきましたね。公演の千秋楽では友人から『曲 という形になって、よかったんじゃない?』と言われて、一つ前に進めた気がしますね 」  その後も、Yさんは福原さんが見たかったはずの公演を見続け、彼が倒れた日から1年 後に、100回劇場公演を見たファンの名前が劇場のネームプレートに刻まれる"100MVP" を達成。さらに300公演越えも達成し、その記録を持つファン限定で09年12月8日に開催 された4周年記念公演も参加した。Yさんは「彼の代わりに劇場に足を運ぶのが、僕と彼 との約束」と語る。AKB48は活動6年目に突入する中、AKB48の妹分・NMB48が『誰かのた めに』公演を開始する。 「AKB48に出会った時の僕は、夢に敗れて、ものすごくやさぐれていた時期でした。そ んな時に、必ず夢が叶う確証もなく、何も省みずにがむしゃらに歌い踊るAKB48の姿に 胸を打たれました。頑張っている人を見ると、自分の今の心境が見えてくると思うんで す。彼女たちを見て、『じゃあ自分はどうするんだ?』と。なので、新たに活動を始め て、夢を追いかけるNMB48が、当時のがむしゃらなAKB48の曲を歌うのは感慨深い。 NMB48には、過去の『ライダー』にとらわれないで、新しい『ライダー』を作ってほし いと思います」  メンバーがファンの通夜に参加することなどに違和感を覚える人もいると思うが、こ れは極めて異例の出来事。福原さんはチケットが並び順だった当時、その列にいつも一 番で並び、全国イベントで各地に参加するなど、初期からAKB48を熱心に応援してきた からだった。当時は今以上に、メンバーとファンが一体となってAKB48というグループ を盛り上げていったという一つの証拠だろう。また、これらのことでYさんもいわれな い中傷を受けたことがあったという。だが、それをいとわず、Yさんは貴重なお話を語 っていただいた。  『48現象』では、A3rd公演の期間は「ゆっくりとライダーを弔ってきた日々」で、メ ンバーたちが一度も涙を見せず「ライダー」を歌ったことで「特定個人を感傷的に歌っ た曲にとどまらず、親しくした人と別れる寂しさと、それを乗り越える強さを歌った普 遍的な曲になり得た」と表現されている。楽曲「ライダー」に公演開始当初は戸惑った ファンもいたが、楽曲へと昇華されたことで、最終的にはファンにとってもメンバーに とっても前へ進む力へとなったようだ。  このように、AKB48はファンの意見をくみ取りながら成長を遂げてきた。実は、福原 さんが全国遠征で着ていたAKB48のハッピも当時、アンケートに欲しいグッズとして彼 が書いたものが反映されて、生まれたものだった。選抜総選挙、じゃんけん大会もファ ンの意見を参考にして発案されたが、そこには誰よりも真っ直ぐにAKB48を応援してい た福原さんの思いが、今も息づいているのかもしれない。 (文=本城零次) -- ※ 發信站: 批踢踢實業坊(ptt.cc) ◆ From: 111.241.247.59