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日本文獻提供; 出處:日本國史略(共五卷) 譯者:塩澤 信彦 補注:巖垣 松苗 著 出版日:明治10年10月、明治13年10月2刻 看不到日文者請安裝PCMAN2007或是下載櫻花輸入法。 取卷一: 巻-1 神代 國常立尊(クニトコタチノミコト) (尊は上古君上の尊稱) 天地陰陽未だ剖判(開闢)せず,渾沌たる雞卵の如し。溟涬(メイケイ)(自然の氣) して牙を含めり。乃ち清輕なるは,礴歴(ハクレキ)(あまねく廣く被う)而して 天と爲り,重濁なるは淹滞し,地と爲る。神聖の其の中に生ずる有り。國常立尊 (クニトコタチノミコト)と號す。又,天御中主尊(アメノミナカヌシノミコト) と曰す。開闢元始の天神也。 國狭土尊(クニサツチノミコト) 豊斟渟尊(トヨクンヌノミコト) 國常立尊・國狭土尊・豊斟渟尊の三尊を独化の神と曰す也。 泥土煮尊(ウヒチニノミコト)  ○陽神 沙土煮尊 (スヒチノミコト)  ○陰神 大戸道尊(オオトノヂノミコト) ○陽神 大苫邊尊(オホトマベノミコト) ○陰神 面足尊 (オモタルノミコト)   ○陽神 惶根尊(カシコネノミコト)   ○陰神 伊奘諾尊(イザナギノミコト)  ○陽神 伊奘冊尊(イザナミノミコト)  ○陰神 ○巳上の八尊は耦生の神と曰す。 ○諾・冊二尊共に天浮橋(アマノウキハシ)に立ち天瓊矛(アマノタマホコ)を持 ち滄溟(青海原)を探る。鋒滴凝結し即ち一島を成す。名て磤馭廬島(オノコロシ マ)と曰う。二尊降り居す。所謂天孫降臨なり。然る後国土,山川草木及び群神蒼 生を化生する也。天神相承るは7代。 天照太神(アマテラスオオミカミ) 大日霎貴(オオヒルメムチ)と號す。伊奘諾尊の長女高天原に御す。太神の弟に素 戔鳴尊(スサノヲノミコト)有り。八握の鬚(顎髭と頬髭)を生じ,勇悍物を害う。 新嘗祭宮を,溺汚し,又,太神自ら神服を織るに屬し,天斑駒(アメノブチコマ) を剥ぎ諸(コレヲ)室内に投ず。太神,驚動し,天石窟(アメノイワヤ)に入り戸 を閉て幽居す。六合の中晝夜を辨ぜず。是に於て群神,天安河(アメノヤスノカワ ラ)に會(ツドイ),相謀り,長鳴鶏(ナガナキドリ)を聚め取香山(トリカヤマ) の五百眞阪樹(イホノマサカキ)を掘り,懸るに瓊鏡(タマカガミ)及び青白の幣 を以てす。篝火を設け楽を奏す。天鈿女命(アメノウズメノミコト)(神の名猿女の 命,命は上古臣下の美稱)芧纏矛(チマキノホコ)を執り蘿(ツタ)を以て手繦(タ スキ)(繦は漢に交結帯と云う帛帯を胸の前後に交え結ぶことを云)を懸け,窟に 作優す。歡笑甚樂む。太神,微に窟戸を啓き之を窺う。手力雄命(タジカラオノミ コト),太神の手を奉じ強いて之を援け出す。 因て素戔鳴尊(スサノヲノミコト)を出雲に謫す。尊乃ち簸上(ヒノカワカミ) (出雲に在)に至る。哭聲の甚だ哀きを聞く。往き見ば翁媪 ,一少女を擁し泣く。 (翁の名は脚摩乳(アシナソチ)媪の名は手摩乳(テナソチ)少女は其の生む所,名 は稲田姫(イナダヒメ))。之を問へば,則ち曰う「國に妖蛇(オロチ)有り頭尾 皆8つ。毎歳來て人を飲む予8女有り,既に7を喪う。餘る所唯是の1女のみ。今 將に亦害されんとす。故に哭るみ。」尊曰。「若し女を以て我に獻ぜば我,能く汝 が爲に害を除ん。」翁媪喜諾す。尊,乃ち容を変じ少女と爲る。8間棚屋を作り, 8槽醞を置き坐し待つ。期に至て巨蛇の來る。酒を飲で酔睡る(八岐大蛇(ヤマタ ノオロチ)也)。尊,剣を抜備馧Dを斬て寸断にす。尾に至て刃少し缺ㄑ。割て之 を視れば一寳剣を得る。乃ち太神に高天原に獻ず。蛇の在る所,上に常に雲氣有り。 故に是の剣を號して天叢雲剣(アメノムラクモノツルギ)と曰う(後に日本武尊 が更めて草薙と名付る)。 尊,遂に少女と婚し,室を清(スガ)(出雲)に築き歌を作って曰「八雲起(ヤク モタツ)兮,八重牆(ヤエガキ)兮,與妻(ツマゴメ) に棲兮,八重牆(ヤエガキ) 兮,造營兮,其八重牆兮,因って留まり居ます焉」(今の出雲の大 社の神是也)。 大巳貴命(オオナムチノミコト)(神の名,一名大国主命(オオクニヌシノミコト) 素戔鳴尊(スサノヲノミコト)の子,或いは云う五世の孫,或いは云う。7世の孫 諸説一なら不。)少彦名命(スクナヒコナノミコト)(神の名,今京師五条街天使 祠の社)と国土を經營し人物を愛惜し,災いを祓い病を療し,醫薬禁厭(マジナイ) の法を定。百姓は聊頼す。 人皇の世に及で太神を尊崇し,以て日に配し稱し日神と曰う。 正哉吾勝速日天忍穂耳尊(マサヤアカツハヤヒアメノオシホミノミコト) 素戔鳴尊(スサノヲノミコト)の生む所。太神取て以て之を子養す。 天彦火瓊瓊杵尊(アメノヒコホノニニギノミコト) 天忍穂耳尊の子。時高皇彦靈尊(トキタカミムスビノミコト)(天忍穂耳尊妃栲 幡姫の父。尊の外祖也。)武甕雷命(タケミカヅチノミコト)(常陸の国鹿島に 祀る神)經津主命(ケイツヌシノミコト)(下総の国香取に祀る所の神)を天孫 (即ち瓊瓊杵尊也)為に前驅し出雲の国に至らしむ。大巳貴(オホナムタ)の子, 事代主命(コトシロヌシノミコト)父に勧て位を避け國を讓る。(事代主命(コ トシロヌシノミコト)遊行し出雲の国三穂之崎で釣り魚を楽しむ) 太神,乃ち尊に賜うに八咫鏡(ヤタノカガミ)を以て曰く。「此の鏡を視る猶, 吾を視るが如くせよ。」又天叢雲(アメノムラクモ)剣と八阪瓊曲玉(ヤサカニ ノマガタマ)を副う。(三種の神宝の始)。 是に於いて,天孫・天兒屋命(アマコヤネノミコト)・太玉命(フトタマノミコト) ・天鈿女命(アメノウズメノミコト)・石礙姥命(イシゴリドメノミコト)を率て 高千穂岑に至る。(岑は日向の国に有り)猿田彦命(サルタヒコノミコト)(中国 の神)迎え導く。武甕雷命(タケミカヅチノミコト)・經津主命(ケイツヌシノミ コト)の諸神と残賊強暴衆悪神(チハヤフルアシキカミタチ)を祓らい除き,豊葦 原中国(トヨアシバラノナカツクニ)(日本の旧号)を平定後,崩ず。 彦火火出見尊(ヒコホホデミノミコト) 瓊瓊杵尊(ニニギノミコト)の第三子。海神の女(名は豊玉姫(トヨタマヒメ)) を娶り葺不合尊(フキアエズノミコト)を生む。且つ満涸二瓊(ミチヒノフタタマ) を得る。國民は豊安。尊は山の幸を求め,兄・火闌降命(ホノスフリノミコト)は海 の幸求める。ある時二人相請う。試しに之を相易んとる逎ち互に弓箭と釣鉤交換。兄 は山に入り獵す。獲る事なく弓箭を返す。尊は既に鉤を海に失う。新に作って償うが 兄受けず。急に原鉤を責む。尊,大に憂悶し,海畔に行吟す。鹽土老翁(シオツチオ ヂ)に遇い告るに事情を以てす。翁,無目籠(マナシカタマ)を造て尊を入れ 之を 溟中に沈め海神宮に至らしむ。海神妻(メアワス)に長女(オオヒメ)を以す。居る 3年,失う所の鉤及び潮満瓊(シオミチタマ)と潮涸瓊(シオヒルタマ)の二宝を得 て還る。(海神大小の魚を集め尊の失う所の鉤を求む。赤(アカ)女(メ)の口に疾 を視る之を探して即ち得る。解に云う赤女は今の鯛。)威徳大に盛に終に能く中国 (ナカツクニ)を鎮め安泰後,崩ず。 彦波瀲武鸕鶿草葺不合尊(ヒコナギサタケウガヤフキアエズノミコト) 彦火火出見尊(ヒコホホデミノミコト)の子也。父尊将に帰らんとす。豊玉姫 (トヨタマヒメ)之に語りて曰「妾巳に妊あり。まさに風と大波が高まるの日 岸に到る。産舎を造り待ち見る事を請う。」既に豊玉姫(トヨタマヒメ)果た して褥に臨む。「戒めて云う。来たりて看るなかれ。」父尊,窃かに往って覗 く。一龍の児を擁してしっかり臥るのを見る。あわて海に入り去れば,其の葺 屋に鸕羽茅草(ウノハネカヤクサ)を以て未だ甍が被う事が出来ず。尊巳に生 まれる。故に號して鸕鶿草葺不合尊(ウガヤフキアオエズノミコト)と曰。西 州(ニシノクニ)の宮に崩ず。吾平上陵(アレラノウエノリョウ)(日向の国 に在)に葬る。 地神凡そ五代或いは云う天孫降臨以来1百79萬2千470余年昔の史籍全く備わっ ておらず事の跡の詳細は考えられず。 ===============由上述可發現日本史的開端也是以神明為主=============== 人皇 (繼承神明,成為人皇) 神武天皇(ジンムテンノウ) 元代 在位80年(紀元 元年~80年) 即位40歳 崩御127歳 時 代  石器・先史・縄文 彦波瀲武鸕鶿草葺不合尊(ヒコナギサタケウカヤフキアエズノミコト)の第四子也。 母は玉依姫(タマヨリヒメ)。帝生まれて聡明・闊達也。 元年辛酉春正月庚辰朔: 橿原宮(カシハラノミヤ)に於いて天璽鏡剣の皇祖神宝を奉り位に即く。此の年 我が大日本帝国紀元第1年と為す。帝日向より舟師(フナイクサ)(水軍)を率 いて東征し筑紫の菟狭(ウサ) (今の豊前)に至る。菟狭津彦(ウサツヒコ) (菟狭(ウサ)の国造りの祖)宮を造り帝を饗応奉る。遂に安藝に至り,埃宮 (エノミヤ)に居す。明年吉備に移り高嶋行宮(コウシマノアングウ)を造る。 水運を脩め,兵食(カテ)を蓄え将に一挙し中原を平定せんしす。居ること三年 既に東す。船を操り浪華崎(ナニワノサキ)二到る。河内を歴し,大和に至る。 膽駒山(イコマヤマ) で拒む長髓彦(ナガスネヒコ)有り,先より饒速日命 (ニキハヤビノミコト)・子可美眞手命(コノウマシマテノミコト)を奉じて主 と為し,官軍は孔舎衛坂(クサエサカ)に迎える。皇の兄,五瀬命(イツセノミ コト)流れ矢に当たり薨ず。軍,草香津(クサカツ)に退く。転じて名草(ナク サ)(邑名)の戸畔(トヘ)(人名)莬田(ウタ)の縣主(ヤカタヌシ)(酋長) に兄の弔い合戦をす。兵を潜めて吉野に入り既に出て八十梟師(ヤソタケル)を 国見丘に破り皆之を誅す。墨坂(スミサカ)を越え賊,兄磯城(エシキ)を斬り 軍を旋して復 た長髓彦(ナカスネヒコ) と連戦,利無し。天曇り氷雨を降らす に会う。武津津身命(タケツツミノミコト)大鳥と化して軍の 前に飛翔し,以 て導きを為す。帝,賞賛し名付けて頭八咫烏(ヤタカラス)と曰う。(大日臣命 (ヒノオミノミコト)(大伴氏の祖)霊鳥の去る所に従い木を伐り雑草を除き開 拓し,帝及び諸軍を導き遂に啓行す。名を道臣(ミオミ)と賜う。饒速日命(ニ キハヤビノミコト),長髓彦(ナカスネヒコ)を斬て衆を帥て以て降る。初め長 髓彦,行人(接待司る官)を遣わし帝に示するに饒速日命(ニキハヤビノミコト) 所持する天神の矢靭(シジン)(矢とそれを入れる具)を以てす。帝も亦,御す る 所を以て長髓彦に示す。之を校するに其の製を同じうす。即ち彼此れ皆天神の 子孫に偽り無きを知る。饒速日命(ニキハヤビノミコト),順に帰せんと欲す。 長髓彦従はず。故を以て殺さしむ。是に於いて将卒を分かち遣り悉く国中の諸賊 を滅す。土蜘蛛(ツチクモ)なる者有り。波多岬(ハダノサキ),和珥(ワニ) 坂,臍見岬(ホソミノサキ)の三カ所に在り。又高尾張(地名)の土蜘蛛有り。 人と為り身短く又,手足長し,並びに勇力頼り会い来たれど降せず。皇軍,葛の 網を以て掩い殺す。巳未の年大和の畝傍山の東南橿原(カシハラ)を本拠地とし, 帝宅を造り始め,是に至って,即位の礼を挙行する。可美(カミ)眞手命(マテ ノミコト)(物部氏の始祖)道臣命等が禁衛軍の警衛を掌る。皇后,媛蹈▉五十 鈴媛命を立つ。 2年,功を定め賞を行う。頭八咫烏(ヤタカラス)も与えられる。 可美眞手命(カミマテノミコト)・天日方奇日方命(アメノヒカタクシヒカタ ノミコト)を以て並んで申食國政大夫(ケクニモノマフスマフチキミ)(大臣 也)為す。珍彦(ウツヒコ)(東征の時海路を導きし者,大和直部の祖)を以 て大和の國造(神を祀り民を治むるを掌る)と為す。 天種子命(アマノタネコノミコト)・天富命(アマトミノミコト)(藤原氏の祖) を左右に侍らしめ政を執る。 4年,皇祖天神を祀る。(皇太祖は伊奘諾(イザナキ)・伊奘冊(イザナミ)二尊。 皇高祖は天照太神也)詔に曰く「我が皇祖の霊や也。天孫降臨し自り朕が身を助く, 今諸虜は巳に平定し海 陸無事,以 て天地祀り大孝を申すべき也。」と,乃ち 霊場を鳥見の山に立つ。 9年,周の恵王死す。子鄭立つ。42年,に死す。襄王と諡(オクリナ)す。子壬匡 立つ。(中國東周初期,周惠王、周襄王時代) 參考網址:http://manjusibe.myweb.hinet.net/q02.htm 天皇の42年間,異事無きため連書するは是の如く,後皆此に倣う。 48年周の壬匡死す。匡王と諡す。弟瑜立つ。75年死す。定王と諡す。子夷立つ是を 簡王と為す。 76年,春3月天皇崩ず。明年丁丑畝傍(ウネビ)山東北の陵に葬る。天皇始めて天 下を統一し以て万世無窮の基を創(ハジ)む。壽127歳。帝,嘗て水を用いず,飴 を造り祝詞して曰く「飴ならば即ち吾必ず矛先の威をかし与え坐りながら天下を平 げんと,飴即ち自ら成る。」又,瓶を丹生の川に祝詞して曰く「吾は能く此の國を 定め得ば則ち魚大小無く皆酔て流れん。暫時魚が尽きる。浮かび出て水に従い噞喁 (ケングウ)(魚が集まって水面に口を動かす)す。」 皇太子立つ是を綏靖天皇(スイゼイテンノウ)と為す。 -- 我用生命寫日記,過去的生命雖已逝,但是雋永,不論酸甜苦辣。 -- ※ 發信站: 批踢踢實業坊(ptt.cc) ◆ From: 60.250.131.124
dinohsu:非常感謝提供詳細的文獻 11/09 12:45
cutesakai:打到人皇 我還以為亞拉岡出來了 11/09 12:52