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補充一點池田屋事件相關的資料 照例空一頁 關於池田屋桂的動向問題...... (經過請教他人後的一點結論) 乃美織江(長州藩京都留守居役)的手記記載,桂當時也在池田屋裡,從屋頂脫逃後躲在對 馬藩邸;桂的自述則是早到沒人所以去對馬藩了。 村松剛(「醒めた炎 木戸孝允」傳記作者)說乃美那個是推測,實際池田屋和對馬藩距離 不近,桂不可能翻越過去,池田屋事件之所以持有歷史意義是因為受到新選組襲擊了,在 當時卻只是N多聚會之一,所以桂優先對馬藩子嗣繼承問題不難理解。 古高俊太郎完全是因為宮部鼎藏(熊本藩士)被抓,所以感覺長州人也不怎麼積極,乃美手 記聚會前他與宮部、吉田榮太郎(吉田稔麿,和高杉、久坂並稱松門三秀)三人已經商議否 決了襲擊新選組屯所策略....預備再次在池田屋商議的貌似只有桂和另外一隻(広岡浪秀 ),榮太意外捲入,杉山松助是聽到消息後出去找桂,還有三隻卻是在街上走著因為出身 長州而被會津兵所抓,維新派這邊的資料很少,或許是因為這之外也沒什麼好提好記載了 ,就是個悲劇..... 覺得池田屋事件真貌有許多個異說,譬如哪些人是脫出後自刃、哪些人是直接被殺、新選 組出動的隊士名單等等...不過毫無置疑的是,這是導致禁門之變的一個引爆點吧。 至於尊攘派的陰謀說 桂的書信應該可以證明其清白,因為池田屋前他曾寫信給久坂說,如今流傳的那個“焚京 都劫天皇”完全子虛烏有,請不要顧慮(如果有計劃絕對沒必要瞞久坂),既然桂和久坂 反對,那麼起碼長州沒有參與。 (雖然不久後的禁門之變還是讓京都成為戰場、大火蔓延數日了||||....) 木戸孝允文書 巻4・21 (宍戸九郎兵衛・北条瀬兵衛) それよりして長人五百人余浪花へのぼり、百人上伏四十人入京、応変洛中放火いたし、 一挙いたし候なぞとの虚説までもおこり、一入恐怖の勢にて 古高俊太郎が新撰組に捕まったあたりの報告。 過激志士が内裏に放火して挙兵する計画を練っているって、ただの噂だったんですか? 新撰組の池田屋襲撃で必ず語られる話ですが、22・義助宛の手紙にも「虚説」「無実 」とある。 もしか事実だったとしても、桂さんは全く知らなかったらしいです。 不過榮太才是身攜藩命負責與幕府交涉,前往江戶暫時路經京都,死得最冤枉的人了... (而且還一直被一些新選組同人作品YY為縱火魔之類的|||...真是太冤了...) 當時幕府與長州直接的交涉一直都是榮太一個人在做,這人做旗本臥底做到能被信任代 理人家的公務,告白真意後那位旗本居然倒向長州、幫長州說情,結果惹怒了幕府被貶.. 而且是長州一群爆走青年中很稀罕能在這種情況下冷靜下來搞政治工作的人....... 文久元年(1861)8月頃、松里という変名を使って、旗本・妻木田宮の従者となる。 妻木家に入った稔麿は、その精勤ぶりが高く評価され、たちまち頭角を現した。妻木 田宮の稔麿に対する信頼は、自分の名代を任せるほど絶大で、幕臣に取り立ててやろう とまで考えていたようだ。当時、妻木田宮は、目付の職にあった。けれども、稔麿の意 見に同調し、長幕調停意見を幕府に建白したのが災いして、目付を免ぜられてしまう。 それと相前後して、帰藩を決意した稔麿は、妻木に全てを話した上で、辞去を願い出た 。 目付を免ぜられ、長男の伝蔵に家督を譲って隠居した妻木だが、稔麿が帰藩した後 も両者の交流は続いていた。「八一八の政変」により長州藩が窮地に立たされた時、長 州藩と徳川幕府とを和解させるべく、真っ先に立ち上がったのは、他ならぬ妻木田宮だ った。 妻木の要請に応じて、文久3年(1863)11月25日に江戸に到着した稔麿は、老中・板倉 勝静に遊説するなど、幕長融和のために奔走する。そして元治元年(1864)2月末に、 いったん江戸を去った稔麿は、しばらく京都に滞在した後、4月15日に帰国する。そし て、落ち着く間もなく、同年5月には、またも藩命により上洛する。行ったり来たりで 忙しい限りだが、これが稔麿にとって最後の上洛になったのはご存知の通りである。 当初は、京都で周旋活動をした後、再び江戸に出て、幕長融和交渉を再開するはずだっ た。 池田屋當天他去拜託別人替他準備第二天出發用的行李..... 平成15年4月1日に発行された「霊山歴史館紀要 第16号」に、「池田屋事変における 吉田稔麿」と題された衝撃的な文章が掲載されている。執筆者の町田明広氏は、これま で取り上げられることのなかった書簡史料を元に、新選組が池田屋を襲撃した時、吉田 稔麿は池田屋にはいなかったと結論付けている。 問題の書簡は、稔麿が定宿にしてい た旅籠の主人(塩屋兵助)とその息子(源助)から、稔麿の伯父である里村文左衛門に 宛てたものと、兵助の妻(雪女)から、同じく里村に宛てたものの2通である。明らか になった事実とは以下のようなものだ。 6月5日(池田屋の変の当日) ●早朝稔麿は、翌6日に急きょ他出することになり、塩屋兵助に使いを遣って、小袴、 脚半、足袋などの旅装を夕方までに用意しておいて欲しいと依頼。すぐに依頼品を届け た所、稔麿はさらに追加の品を注文。 ●夕方源助が追加の品を指定の場所(池田屋)に届けた所、稔麿は上機嫌で礼を述べた。 なお、この時、稔麿は池田屋ですでに4、5人と密談中だった。 ●4つ時(22:00)稔麿は、池田屋を出て長州藩邸に戻った。すなわち、新選組が襲撃 した時、稔麿は池田屋にはいなかった。 ●9つ時(0:00)池田屋から脱出した者の報告を受け、稔麿は藩邸を飛び出した。し かし、加賀藩邸前にある「しなの屋」という酒屋の門口で、会津藩兵ら多人数と遭遇し 討ち死する。 ●6日未明稔麿の遺体は長州藩邸に収容され、翌日霊山に埋葬。 於是證明了榮太當時根本不在池田屋,只是繼續被埋沒下去www.... 問題是榮太為何會在接到池田屋被襲擊的資訊後跑出去..... 或者他準備趁夜出發去江戶??.....總而言之,人就這麼掛了|||..... 碎碎念了一堆 好像和龍馬完全無關XDDD~ (咳....) -- 三千世界のカラスも呆れる -- ※ 發信站: 批踢踢實業坊(ptt.cc) ◆ From: 114.43.39.32
popoka:推 長知識 06/15 13:02
ophiodon:大推 太謝謝了 @@ <--崇拜的眼神 06/15 18:44
ophiodon:這樣說榮太真的死得很無辜...完全不明不白...orz 06/15 19:13