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本回顧錄及其翻譯,提供Warfare戰史板使用, 未經本人使可,不得使用於其他用途(含學術、新聞) フイリッピン從軍回顧錄 魏XX (和田源一) 手記   昭和十六年 (西曆一九四一年) 十二月八日司令長官山本五十六元帥指揮の日本海軍 聯合艦隊が,真珠港に奇襲を敢行,米海軍太平洋艦隊に多大な損害をあたえ,これが第 二次世界大戰の端緒となつた。 その後日本は,廣大な戰場の兵員不足を補充するが為 ,台灣總督府は翌年の四月一日全島に﹁特別志願兵制﹂を發布し,昭和十八年 (西曆一 九四三年) 九月二十三日更に﹁台灣全島徵兵制﹂を發布して,台灣青年を東、西、南、 北の各戰場に驅使した。 僕は 先父の:「この戰爭に中國大陸は敵方になつた,大陸の人民は我我と同族で あるから,お互いに刃を向け合うな」との家訓に從つて;昭和十九年一月頃,折よく南 投郡役所警察課 (現在の警察分局) でフイリッピン派遣の海軍巡查人員不足の補充試驗 があつたのでこれに應募した。 試驗に參加したのは全郡 (南投街、草屯街、名間庄、 中寮庄等) 各地の青年約四十數名であつた。 試驗終了後約三時間を經て;午後六時半頃,警察課長 (現在の警察分局長) により 成績の發表をなした:「魏君、魏君!」と呼んだが,誰なのか分らないので,皆シンと して待つて居た,これを察した課長は改めて:「魏XX君」と名指しで呼ばれ:﹁ハイ ﹂と立ち上がつて返答した。 課長は:「魏君の成績は一番良いぞ」 と言はれて,合 格採用だと分つてホッとした。 その次に名間庄の陳XXが呼れ第二番であつた。 こ の度の試驗は補充なので只二人だけが採用され,其の他は皆それぞれ落膽した顏で歸つ た。   昭和十九年二月二十九日午前八時,第三の姊上の真心こめた,千人針を腹に卷き, 行囊を攜帶して,南投郡役所に集合;警察課職員の付添いにて,明治驛で汽車に乘り, 一行二十數名高雄へと向つた。 當日の午後三時頃に左營驛で下車し,海軍の海仁會に 假入隊をした。 全員軍醫官の身體檢查を受けて,不合格者はここで歸された。 此處 で約二週間を乘船を待ちつつ,日本海軍獨特の嚴格な訓練を受けた。 每日の課程は午 前五時の起床ラッパにすばやく寢具を整理し,手洗いをすまして,海軍體操の訓練で始 まつた。 寒風吹きたける朝靄の中に半裸の背中は汗一パイであつた,日本海軍の "月 月火水木金金" の土曜、日曜なしの猛訓練の一端が見られた。  昭和十九年三月十四日午前九時頃,愈愈出港だ。 上船前感冒で發熱してたが隊友 の助けで網梯子で上船した。 海軍の五千噸級輸送船が七隻に、一隻の八百噸級の掃海 艇で船團を組み,その掃海艇の護送で出港,故鄉の山河に別れを告げた。   航海中,米海軍潛水艦の襲擊を恐れてのジクザク航法で,南ヘと進んだ。 四日 三晚にてマニラのキヤビテ軍港の第三波止場に上陸,そこの海軍基地に入隊,又もここ で約一個月訓練が行はれた。  各科目の課業以外に始めての日本海軍獨特の手旗信號の訓練もあつた,紅白二本 の小旗にて「イロハニホへト」の四十八文字と,數字の組合せでの通信方法であつた。  手旗信號を習つてる當初は要領も知らないので,難いなと思つたが,二日後には,教 導兵曹の示範動作の一畫一畫を空中に浮き上らせ,これを組合せて解讀したら,案外に 簡單で四、五日で全部の動作を覺えて仕舞つた。    これを二週間も訓練され,訓練中一番先に訓練係の兵曹の指名で,壇上に上つて 示範をしたのは,僕であつた。 その他不合格の隊友が小旗を肩に隊を組んでグランド を十回「日の丸行進曲」 (日本國旗を尊敬しての愛國歌謠) の罰走が可笑しかつた。 訓練結束後,始めての團體外出に一同隊を組んで堂堂と,マニラ市內を步調も正 しく,有名な萬歲橋 (元名はクェゾン橋,これはフイリッピン早期の總統であるマヌェ ル.クェゾン (MANUEL QUEZON ) を紀念して名付けたのを日本軍佔領後「萬歲橋」と改 めた) や,リザ∣公園 (フイリッピンの獨立運動創始者ジォシ∣.リザ∣ (J0S,E RIZAL) を紀念して造つた公園である,リザ∣はこの國の國父でもあつた) 、サンテア ゴウ要塞 (スぺイン統治中,外敵を防ぐために築いた) 等を見學して步いた。  ここで北部地方部隊と,台中以南部隊の派遣先の抽籤が行はれた結果,僕達は南方 のミンダナオ島と決定した。 最南端の熱帶地方なので,皆落膽したが後で良かつたと 思つた。 なぜならば北部地方部隊のマニラ駐在は終戰前,米軍とマニラで激しく市街 戰をやり,警察隊は最前線にたたされ,米軍と對抗し多數の戰死者を出したからであつ た。   ここに入隊中,故鄉の 父親宛に手紙を一通軍事郵便 (無料) で送つたが,內容 檢查で,その中の:「 父、 母上の膝下を離れ,身元にて孝行を盡くせないのを不孝に 思つてゐます」と書いたのを隊長達に呼ばれ:「この非常時期に國に報ずるのは忠孝一 本 (忠孝兩全) である」と諭され,この一句を削除した。  昭和十九年四月十八日午前八時頃,全員二百餘名は,五千噸級の水雷敷設艦に乘艦 ダバオに向つた (この艦は艦首に大きな菊の御紋章があり,この紋章は日本海軍の艦艇 では,軍艦級に屬するものだけに授ける榮譽の誌でして,三千噸級の驅逐艦以下にはな い) ;艦內の種種の裝備は一流であつた。 艦首に十五CM主砲一門、爆雷發射器數座 、機銃等の武裝で,甲板上には幅一M程の黃褐色の防滑表層が甲板の四邊に敷いてあり ,戰鬥配備についた時,戰鬥員が安心して驅けられる設備で有る,これには感心して仕 舞つた。  二日後,スル∣海 (SULU SEA) に達した,ここの落陽は世界的に,有名なので艦上 にて觀賞した。 三日目の晚モロ灣に入つた時,突然米海軍潛水艦の接近を探知し警戒 警報のブザ∣が鳴り響き全員戰鬥配備についたが,幸いにして襲擊もなく;同じく四日 三晚を經て,四月二十一日早朝ダバオ市のサンタナ棧橋に無事上陸。   トラツクで約四KM先の日本海軍第三十二特別根據地警察隊 (通稱「陸警隊」) に入隊。 全員六教班に編制して又も訓練が始まつた。 番號一、二、三、四、五、六 にて分けたが,同鄉の隊友多數が別れ別れになつたので擔當の上等水兵に賴み數名を入 換えてもらつた。 自分は第四教班に編入され班の當番 (班長) となつた,教班長は大 阪人で松田卯之助一等兵曹でした。 訓練結束後から分つたが六教班の內では,この教 班長が一番のお人良しで其他の五教班長はいづれも暴君であつた。  ここでの訓練はマニラに較ベてはるかに嚴格であつた,訓練當初は全員の動作が 鈍いなのか,就寢前の蚊帳のつり手が外れたのにも分らず,第二教班長に見つけられて 始めての團體制裁を加えられた。 野球用のバッタ見たいな太い棒で,お尻を五回打た れて肉が腫れ上り,夜寢る前に所持の「萬金油」を擦りつけながら:「來なければ良か つたのに......」と後悔したがもう遲かつた,これがいはゆる「改心棒」であつ て最初の經驗であつた。 又「前に坐れ」 (伏地挺身) と言う制裁方法もあつた,有る 日何かの間違いで,僕と松宮等數名が床板にての「前に坐れ」には體弱の松宮が耐えか ねて「ウンウン」苦しそうにうめいてるのを,勵まして終つた程でした。   又海軍の團體制裁の一つである「三分間食事」と言うのがあつた,ある日ある隊員 の違反行為にてこれが行はれた,六教班總員二百四十餘人,階下の廣場に集合,警笛一 聲全員は廣さ三Mの階段を我先にと,競うて驅け上り自分の座について食事を始めた。  僕は先に飯を二、三口頰張り,干物をポケットに一パイつめこみ,お汁を二、三口す すつて急遽階下の廣場ヘと驅け集まつた。 若しも間に合はなければ又の制裁であつた ;當日のおかずは特に多かつたのに惜しい事に皆捨てられた;事後,この樣に物資を放 棄して惜しまないやりかたは,急變に對應する一種の軍事教練の要素だと分つた。   一箇月後訓練もホボ終點に達したので,全員の終業試驗を始めた。  この試驗の成績發表は翌日の晚の溫習時間で第三教班長によつて行はれた:「全 隊二百四十餘名の中に,第四教班に只一人滿點を取つた外,一部分の者は甘ばしくない 」と言はれた。 それを聞いて教班內のインテリ顏の,古莊か或は清川であろうと思つ たが,以外にも自分であつた,第二番は松宮でした;これにて各班の教班長は始めて僕 の顏を知り,その後の團體制裁には大目に見てもらい,班員達も僕のお蔭で大いに助か つた。 さすがに日本人は,インテリに對し尊重するのに感服した。 その日第二教班に一人の隊員が試驗中,カンニングをやつたのを見つけられ,二、 三人の教班長が寄りたかつて,改心棒でこの隊員を制裁し彼が痛みに耐えかねて,柱に しがみついてわめき泣いてる無慘な光景は,今でも目の前に浮ぶ。 訓練中,教班對抗の約四KMの道路長距離競走が行はれたが,僕等第四教班は僕の リイダ∣で二等を取つた。 褒美にチヨコレ∣ト.キャラメルを澤山もらい,各員二十 箇づつ分けて皆で久しぶりのキャラメルを嬉しそうに食ベて居た。 ある日實彈射擊の演習が行はれた。 第一教班から順に始めて,第四教班の番につ いた。 僕の銃は,照星がフラフラで固定してないので,疑いもなく命中率は「ゼロ」 であるはずであつたが,始めに「膝打ち」で五發發射したけれど,三百Mの標的は,こ の僕の近視眼には只の小さい白點にしか見えなかつたので當然の「ゼロ」;その次は「 伏打ち」で同じく五發だが第一教班長の裁判なので三點吳れた。   この實彈射擊演習で,若しも點數を取らなければ,制裁されるからの好意であろ うと思つた。 「ゼロ」をもらつた隊員は全隊の半數以上,歸營してからは「立ち射ち 」三十分の制裁であつた。 本教班が射擊中,射擊場附近の土民から食物を買つて食べ てる隊員があつたので,制裁する事に決め各班の教班長が追究したが,誰もこれを認め なかつた。 それがもとで團體制裁を加へられる事になつた。 僕は教班長に隊員達が 買物をしてる當時は,僕等教班の射擊中だと辯解したので制裁は免かれたが,本教班全 員は,便所掃除を命ぜられた;掃除後今日はこれで終りだと思つたが又早い。 第三教 班長が,便所掃除は不合格だと言つて,全員廣場に整列又も改心棒であつた。    最初は第四教班長が前から一人づつ五回と毆つて來た,僕達の教班長の制裁だか ら餘り力を入れてないらしいのを見かねて第二教班長が:「手緩いぞ!」と改心棒を受 取り力を入れて毆つて來た。 續いて第三、六教班長と換り、第一教班長に換つた時は 僕の番だ。 所が第一教班長は僕から次へは三回の手緩い毆りかたで,又第五教班長と 換つた,それ以後の隊員は皆三回で濟ませた。 幸いに尻は最初の樣には腫れなかつた 。 昭和十九年六月十五日,二箇月間の訓練を終えて; 全員改めて五箇小隊に編制, 僕は第三小隊に編入された,小隊長は次郎丸警部でした。 各小隊の裝備は七.七MM 艦上專用空冷式機銃一挺,各員米陸軍より鹵獲の三0式步兵銃一本,彈丸三千發,各自 攜帶の彈丸百發を受領した。 僕は二百發も所持して居り,其の中には曳光彈もあつた 。 全小隊はトラックでダバオ市 (DAVAO ) 北方約十KMさきのパナカン (PANAKAN) に行き爆彈庫の警備についた。 爆彈庫は大きな木造倉庫で三箇處もあり,本舍は土民 の殘した立派な二階立ての木造家屋を使つてる。 每日の三食は約二KMさきにある海 岸端の海軍施設部炊事場で賄い,順番に自轉車で,大食罐二箇に一パイ飯と野菜に分け て搬び歸り分配して食事をした;三食共惡くはなかつた。 稀にはカバヨウ (驢馬のフ イリッピン語で,マニラ市內を走りまはつてる小馬車はこの驢馬で引いてる) の肉もあ つた。 中國の古言に:「天上は龍の 肉,地上は驢馬の肉」と言はれた如く確に美味であつた。 ある日立哨中,道の向う側の草叢の中に,突然大きな蛇が鐮首を抬げて,長い舌を ペロペロと伸ばしてるのを發見した,驚いて銃に彈丸をカタッとこめて射擊の待勢を取 つたら,彼奴この音にビックリしてクルリと身を交し,左前腳を見せて逃げて仕舞つた ;何だ大トカゲだつたのかとホッとした,フイリッピンで始めて見た大トカゲで有つた ,頭が大蛇ソックリの種類である;身長は約一.五Mもあつた。 基地から約五KM奧に廣い沼澤地があつた,もとは大木の森であつただろうが,山 火事で,今は燒け殘つた黑焦げの大木が數十本殘つて居た。 そこで又一種の長さ約八 十CMのトカゲが,その枯木の中ほどにジッと張りついてるのを見た。 保護色で身を 守つてるから注意しないと見えない。    ここでは戰爭中とは言へ物資には欠かさず,日用品の補給も充分にあつた。 補給價格も安く,二十本入りのフイリッピン煙草一箇は十錢,原地製の長さ一尺も ある白い洗濯石鹼一本も十錢,日本のビ∣ル一本十五錢,何れも日本軍發行の軍票で買 つて居た。 軍票の種類は五錢、十錢、五十錢、一圓、五圓と數種有つた。  僕は煙草を吸はないので,使い殘りの石鹼とを一箇三圓で土民に賣つた。 又配給 品の中から,全員二十數人,各一箇の石鹼を提出して,每日一本づつ土民の雞一匹と, 交換してこれを處理し,石油罐で料理して,全員おいしそうに食べて居た;雞の處理方 法を次郎丸小隊長より習つた。 日常飲料水は,小川の水で用を足したが,水浴は皆川水をそのまま使つて居た。  沸かしてなかつたので皆インギン (陰囊皮膚炎) に罹つた。 早速故鄉から皮膚病の特 效藥を送つてもらい治した。 ある日非番の隊友と,二階で四.五MMコルト拳銃の分解結合をして油を引いて る時,僕は彈夾を外した拳銃の中に一發の彈が裝填してあるのも知らず,引金を引いた ら,「パン!」と一發,彈丸は共田 (集集人) の左橫を逸れ逸れに飛んで,板壁を打破 つた。 皆吃驚りしたが,幸いに共田に當らなかつたのでホッとした。 ここで蝗の幼虫が道路一パイに,群をなして爬つてるのから,成虫になつて空を 覆うが如く飛んでるのを始めて見た。 一同捕虫網を造りこれを捕獲して油でいためて 頰張つた。  當地に派遣された當時は,土民部落や田舍にも土民の男女が多く住んで居り;每週 の土曜、日曜には,兵舍の前の道を男女伴なつて海岸端の部落に步いて行き,鬥雞やパ アティで過して居た;皮膚の淺黑い女が,フイリッピン民族特有の,兩肩の高い蟬の羽 衣を著て,手にハイヒ∣ルを提げて部落に入る前に,小川の水で足を洗つてからこれを 履き,パアティに參加するのであつた。  そこではフイリッピンの鬥雞があつた,この鬥雞は他の國と違い,右足首に長さ二 寸程の銳い片刃の青白い小刀を縛りつけて,二匹互いに斬り合う殘酷な賭博遊戲であり この國の民族性をあらはに示して居る。   その晚立哨中や室內に休憩中でも,遙かに音樂の音が夜おそく聞えたが,戰況の 惡化にともない,これ等土民達は何處かへ消えて仕舞つた;多分奧地のゲリラ隊に參加 したのであろう。 ある日,廣田と二人で西方約四KM奧の部落へ斥候に出動したが,土民は一人も見 えなかつた,歸途竹林で二尺ばかりの麻竹の筍が澤山生えてるのを見つけ,帶劍で數本 切り採つて肩に擔いで歸り,その晚の雞と一しよに煮たら新鮮なのか故鄉のと比ベはる かに美味でした。 だが肩に擔いで歸つた僕等二人は大變でした,全身は筍の毛にて, 搔痒を感じ耐らないので,早速熱い水を浴びて,著換えをしたら痒みは止つた。 僕達は,高雄出港以來これ迄の四箇月間,戰地に居るとは言へ,何等の戰場氣分も 無く,只勤務先で思う存分氣樂に暮して居て,まるで避暑に來た樣なものであつた。   昭和十九年七月七日,ラヂオでサイパン島の駐屯軍約三萬人の戰死者を出して玉 碎,續いて八月十日グアム島の玉碎をも聞いた。 愈愈米軍の大反擊は激しくなつて來 た。 その間日本の海軍聯合艦隊が,次次に米海軍艦隊に擊敗されたニユ∣スを密かに 耳にした。    同年七月二十六日,全員ササ飛行場東方のササ囚人收容所警備に轉勤した。 この囚人收容所は,ダバオ灣に面した海岸端に有り,廣さ150M,奧行き250M ,周圍には鐵條網を張り渡し,三千Vの高壓電氣を通じてるので,囚人監視としては完 璧である。 囚舍はフイリッピン特色の土民家屋で全部見とほしです,拘禁してる囚人 數約三百餘人,ほとんどがフイリッピンの土著民でした。   ある日收容所內にて大トカゲ二匹を發見,日本工員がそのスピ∣ドを上げて逃げる 奴を追い捕えて,その晚の御馳走にした。 これも始めてだ雞肉よりも美味である。 米空軍はこの八月から每晚B24コンソリ∣.デッド重爆擊機の單機で,一時間置 きの夜間疲勞爆擊を開始した。 ある晚,東北方約八KMさきの九七式四發水上偵察爆 擊機の碇泊基地に被彈,夜明け迄間斷なく爆發が續けて居た;ドラム罐に一パイの石油 が多數やられた樣だ。 夜間爆擊は一箇月間も續いたので,隊員達の心身に多大な影嚮 を受けた。   この調子では日本は長くは持てないと思い,ここで支給された給與と,日用品の賣 上げ金を,次次に台灣銀行ダバオ出張所にて無料で故鄉の 父親宛てに送金し,現地の 軍事郵便貯金は一錢も殘さなかつた。   同年の九月一日午前九時半頃,囚人居住區內の監視勤務中,土民囚人達が東方の 大空を見上げて騷ぎ立ててるのを發見,彼等の目に沿つて東方の空を見上げたら,大空 一パイに四機密集編隊のB24重爆擊機と、無數のB25輕爆擊機、P38ロッキ∣ド 戰鬥機、グラマン戰鬥機等が空を覆うが如く,白晝堂堂と誰れ恐れるものなしの來襲で あつた;危いと急遽防空壕に跳びこんだ剎那,投下された五十キロ即發爆彈が周邊に炸 裂して,囚人達數人が負傷した。 當日遙か南のマテナ飛行場の陸軍高射砲彈が,上空 のB24一機に命中,機體は一瞬にして,木っ端みじんに四散しその大きな主翼が木の 葉のごとくヒラヒラと落下してるのをこの目で見た。    この收容所の西方約二KMには空軍一式陸上攻擊機 (通稱「陸攻」雙發重爆)と ゼロ戰の飛行場が有つた。 每度の米空軍來襲には必ず收容所の上空を飛び越えて行く ので,時たまそのおのこりの爆彈が收容所の周圍に落下するから,充分に用心をして居 た。 戰況の惡化に伴ない日本空軍の弱勢がいよいよ明らかになつて來た。 ササ飛行 場では每日陸攻が一機づつ離、著陸を間斷なくやつて居た,その機體番號は,どの機も 同じなので,さては土民を威喝する陽動作戰だと分つた。    同年の九月十二日,小隊長と僕、福田、原田、平島、永岡、長澤、野村、福山等は ,トラツクにてダバオ市東北方約十五KMのテブンコ山麓にある無線電信台に轉勤した 。 ここの建物は,もと日本邦人が立てたもので,屋內の設備は上上,自動交換式のレ コ∣ド電蓄一台、電氣冷藏庫一台、麻雀の牌も一組あつた;又廣い板敷きの部屋もあつ た,皆はこれをダンスホ∣ルに利用し,電蓄を掛けて,台長 (非軍職,何の名前か忘れ た) の指導でダンスを習つた。 炊事場は別棟にあつて,炊事道具一切整ヘてあるから 何も不自由ではなかつた,寢台は二段の木製で,床に厚いシ∣トを各一枚敷いての高級 生活であつた;家屋は椰子林の中にあり,無電の天線は,高い椰子の木のホボ二尺上に 伸びてるので,米軍の目標にはならなかつた。   每日の警戒當番以外,日中は暇なので,邦人の殘したコブラ搔きで椰子の實を削り ,それを大盥いにて一晚中水に浸し,翌日その儘それを約四時間ばかり煮つめ,上に浮 んだ油を掬ひ上げて大瓶、小瓶に貯へた,これが即ちフイリッピン名產の椰子油であり ,野菜の調理にはもつてこいの良い材料であつた;勿論その儘熱い飯に醬油とまぜて, 食べるのも口當りのいいものであつた。 この地の名產は,ドリアン、マンゴ∣.スチン、マンゴ∣、椰子、マニラ麻、トボ ウ (フイリッピン語,甘蔗である) 、パパヤ (木瓜) 、マイス (トウモノコシ) 以外に ,サギン (バナナ) があつた。 サギンは故鄉に見られる種類の外,外型の小さい枇杷 見たいなモンキ∣サギンや,紫色の皮で肉の黃色いサギンと,長さ四十CM、太さ六C Mの大きいサギンもあり,普通のサギンは房になつてるが,この種のサギンは,樹上に 數本だけ弓形に各各空へ向つてなり珍しいものである,その形が牛の角みたいなので牛 角芭蕉と名付けた。 又テンプラサギン (麥粉をつけて油揚げにし,土民達がこれを露 店で賣つて居る) と言つて戰後故鄉にも出產してる南洋バナナなんかもあつた,皆故鄉 のより美味である。 その外に綠色の軟かい棘の樣な物が表皮にある,大きさ八寸×四寸のサボチナと言 ふ果物があつた;最初は樹上から採取して直ちに割つて食べようとしたが,中に白色の 涸びた堅い肉と黑い種があり,又熟してないので,食べられず捨てて仕舞つた;話によ ると採取して約一、二週間置き柔らかくなつてから食べられるとの事で,その樣にして 食べたら,甘ズッパイ味でした;又ポロミツ (台灣.屏東方面にも有る) やパンの木等 もあつた。 ある山麓に一本ポッンと立つてる,菩提樹見たいな木を發見したので,近 よつて見れば,その實は何と「西遊記」に出てる「人參果」そつくりなのに驚いた;「 人參果」は人間の長壽に有益なのだから,熟れたのを一箇採つて食べて見たら,スッパ イ味なので二口でやめた。 ある日小隊長が,ポケット拳銃の試射に約八M先の黑犬を狙ひ,一發「ポッ!」 と小さな銃聲で,黑犬はコロリと倒れた;銃も彈丸も小さいが,致命力はあつた。 こ の晚は炊事係の原田の忙しい時であつた,晚餐のお菜に,始めての犬肉であつたが,美 味であつた。 この期間內,每日暇なので平島の教導で,四人一組の﹁麻雀大戰﹂が始まつた。  相當熟練してから平島は,一步進んで勝負の計算方法を教ヘるつもりだが,僕はこれ を習へば將來博徒になるので拒絕し,每日只遊び半分で皆樂しんで居た。  米空軍の空襲は愈愈激しく,日中遙かに西南方のダバオ上空を見たら,B25の急 降下爆擊や,グラマンと零戰の空中戰が,每日映畫の如くはつきり見えた,ダバオ市の 損害は大きい樣だ。  昭和十九年十月十五日,ここを引上げササ收容所の隊員達と會合し,サンタナ棧橋 にて魚雷艇に搭乘,ポイントリナフ魚雷艇基地の警備に轉勤した。 この魚雷艇は約五 十噸級の八人乘りで,下記の同型二種があつた:その第一種は砲艇で,艇の舳先に二十 MM機關砲二門,左右の舷側に十三MM機銃各一挺,兵員各自に九九式小銃一本の武裝 で魚雷艇護衛用です。 第二種は魚雷艇で左右の舷側に五十CMの魚雷各一箇,船橋に 十三MM機銃一挺,兵員も同じく九九式小銃各一本の配備であつた。 僕等は四十分位 の航程でポイントリナフ魚雷艇基地に著き,種種の軍需品,食糧等を整備して,又船で 約四KM西方にある前進基地に上陸,暫らくは土民の小屋に住んだ。  ある日褌一枚で床に晝寢をしてる時,突然椰子の葉葺の屋根裏から,冷い何物かが 腹の上にバサッと落下し這つて行つた,ヒヤッと吃驚りして目が醒め立ち上がつて,確 めたら何と一Mあまりもある細い青蛇が長椅子の上にて鐮首を抬げ,舌をぺロペロと吐 いて居た;﹁この野郎!驚かしやがつたな!﹂と槊杖で,その鐮首に一擊を加へて,中 庭に拂出したら首が折れて死んで仕舞つた;幸いに囓まれなかつた,冷血動物に接觸し たのはこれが始めてだ。  ポイントリナフはダバオ市の東北方約三十KMの處に有り,小山を背にダバオ灣に 面して居り,サマル島が遙かに見える風光明媚な所で,南海特有の青い透きとほつた海 は美しかつた;水中にも澤山の熱帶魚が泳いでるのを見かけた。 日本海軍はここに基 地を設置し,魚雷艇出入の便に棧橋を築いて居た。 ここより西の海岸沿い約四KM離れた所に,僕等警察隊の前進基地があつた。 海岸沿いとは言ヘ魚雷艇基地とは,ジヤングルを隔てて居るので陸上には道がなく ,平常の連絡は,土民の殘したカヌウで用を足して居た。 僕達は順番で約二KM西南 方の前哨及び西北方約二KMさきの第二哨、隊本部と三箇所に,二時間交代で嚴重に警 戒にあたつて居た。 二、三日後非番の時,皆で奧地にある土民の殘した家屋の木材を取りはずして持 ち歸り,海邊の砂上に約二十坪廣さの兵舍を立てた。 柱の大丸太を砂中約一Mの深さ に埋め,床は全部ラワンの上材で敷いた立派なものである。 滿潮の時,海水は床下ま でも漲つて來るので,夜はさざ波の音を聞きながら夢に入つた。 每日晝間の非番には ,二、三の隊友と褌一枚で海に跳びこみ泳いだり,潛水をしたり,カヌウで沖合いに漕 ぎ出したりして遊んで居た。 兵舍は海岸端に立つてるので,日常飲料水にと深さ二.五Mの井戶を堀つて見たが ,鹽からく飲料水には適さなかつた。 それで西北方約四KM奧の川へ淡水を汲みに, もと日本邦人の木材伐採に使つた鐵道と輕便車を利用し,三日ごとに順番で武裝二人, 水汲み二人計四人で,輕便車に三箇のドラム罐を載せて川上に行き,川の淡水を汲み歸 りそれを日常飲料水に使つ居た。 平常は武裝二人のうち一人は,水汲み場に到達する と周圍の警戒に當り,も一人は崖上の鐵道線に沿うて崖下の川面を探索し,川魚の群を なして泳いでるのを崖上から發砲し,その衝擊波にて大部分の魚は死んで浮び上つて來 る。 水汲みの一人は石油罐二箇で水を汲み,も一人は褌一枚で川に跳びこんで浮き上 つた魚を掬い上げ,その場にて馬穴に清水を入れ,料理して四人で食ベるのであつた, まるでピクニックに來た樣で樂しかつた。 ある日,小隊長と廣田、僕三人でカヌウを操り,海岸傳いに西南方約十KMさきの ,中國人の農場探索に行つたが土民一人留守をして居つた。 大豚を澤山かつて居るの で,約二百キロの大きい奴を一匹選んで徵發し,丸太で廣田と二人掛りで約二百M先の カヌウ迄搬んだ,重かつたので二人の步調はフラフラ,漸くにしてカヌウに載せ基地に 歸つた。 その晚は豚肉料理で,全員たらふくたベた。 基地の水兵達は,漁季に入ると魚雷の火藥を拔き出し信管をつけて空罐につめアス ファルトで封じた火藥罐を造り,天氣の良い日を選んで三、四隻のカヌウで沖合に漕出 し,ボラ (烏魚) の大群に點火した火藥罐を海中に投げ入れ,その衝擊波にて大多數の 魚は目を彈き出して死に十數M深さの海底に沈んだ。 水兵達は一人一人海中に潛りこ み,約一尺餘りもある魚を,口、兩手、兩腋に各一匹合せて五匹を氣輕るに拾い上げた のを見て,僕も試しに海底の光點 (近視で水中には眼鏡は用にたたない) を目指して潛 りこんだが,餘りにも深いなので海底には達せず中途で引返つたが,浮上るのに大變だ つた。 高雄縣の隊友岡村 (岡山人) は泳ぎもうまいが,無理して一匹拾つて浮上した 途端に,鼻血が吹きでた;水壓の強いのに驚いた。 今日は大漁なので,警察隊も十數 匹分けてもらいその晚のおかずにした。 警察隊の三食は隊員の原田 (北斗人) がこれを擔當して居た。   ある日一匹の水牛を捕へたのを,野村 (南投人) が銃で水牛の頭に一發,水牛はバ ッタリと倒れてバタイ (フィリッピン語で死んだと言う) したのを隊員四、五人で處理 して,全員で何日も牛肉の御馳走になつた。 有る日の事でした,立哨交代に前哨に參 つた時,細川は立哨勤務中にも拘はらず帶劍で何かを殺し毛を拔いて居た;子細に見た ら何と雛の少し大きい奴であつた。 この基地では長期戰に備ヘてトウモロコシの碎い たのと白米の半半で主食としてるけれども,副食には欠かさなかつた;それなのになん と酷いことをするのでせうか,呆れて物が言へない。 戰況が愈愈惡化して來たので,全員でもと邦人の木材會社が殘して行つた,鐵道の レ∣ル (長さ八M、重さ約六十キロ) を搬んで歸り兵舍附近に堅固な防空壕を築いた; レ∣ルは重いので一本を二人がかりで擔いで歸つた,全員の中に一人一本を擔げられる のは,僕と廣田、永松、福田の四人だけであつたが,體格の大きい長澤は:「君等には 負けんぞ」と一人で擔いで見たが,途中でくたばつて仕舞つた。 ここで台灣全島が,米空軍の一日延ベ二千餘機の空襲で,大損害を受けてるニユ∣ スを聞き,戰地に居る僕には,かヘつて 父、 母上と姊、弟達の安危がきがかりであ つた。  同年十一月頃,重田大隊長がダバオから來訪,一しよにカヌウで,四KMばかりの 沖合いで,大隊長と共に水に入り,基地に向つて泳いだが,大隊長は長いこと泳がなか つたのか,約二.五KMでくたばつてカヌウに上がつた;僕はズッと先頭で基地に泳ぎ ついた。   昭和二十年 (西曆一九四五年) の正月は,ここでトバ (フィリッピン語,椰子酒で す) を飲みながら新年を迎えた。 そのトバは椰子の花房を切り捨てて,それに片方の 節を切り捨てた竹筒を插しこんで縛りつけ,その流れ出た汁を竹筒に受けその儘樹上に 掛けて,約四、五週間置いて自然に樹の上で發酵させ,それを採取したのがこの紅紫色 のトバである;その勻いは殘飯の臭みに似て僕は好まなかつた。   同月九日,米軍はミンダナオ島のコタバトに上陸した。 同日の午前九時頃,休憩 中に,突然遠くからパ、パ、パンパ∣ンと激しい銃聲が聞こえた。 さてはゲリラの來 襲かと,急遽武裝をなし空冷式艦用の七.七MM機銃を肩に擔い,海邊の砂地を懸命に 走つて前哨に到著,速やく機銃を固定し威喝射擊を一分間もした。    機銃掃射中の昂奮は今でも忘れられない。 後續の隊員も追いついたので,又鐵道 沿いに約一KMも入り,ここで二度目の威喝射擊をした。 これで充分の效果が有るだ ろうと,又約一.五KMの水汲み現場に進み,崖上の鐵道線に沿うた草叢に隱れてる負 傷した永松 (武裝) を發見,彼の兩側の尻に一發づつ彈丸が貫通し,左側の彈丸の出口 には,約十CMの大きな傷口がポカッと開いて居たが,幸いにもそこは血管が少いから 出血は少なかつた。 彼の話によると,麻バタケに埋伏して居たゲリラが突然襲擊した ので崖上のレ∣ルの上に伏し,反擊をした所が尻が丁度そのレ∣ルの上に居て高かつた から,そこをやられたとのことです。 それから皆で附近をくまなく搜查した結果,下方の川原に武裝の細川 (雛を殺して くつた人である) と,褌一枚全裸の長田と二人は,キャピン銃で蜂の巢の如く打たれて 即死して居た。 もう一人の長岡は行方不明となつた;永松が生きて歸られたのは,威喝射擊でゲリ ラが援軍が來たのだと知り逃げ出したお蔭であつた。 急いで負傷の永松と,死亡の二 人の遺體を輕便車に載せて基地に歸り,僕の舵取りで廣田とカヌウで,永松を魚雷艇基 地の醫務室に送り救急處置をした後,早速魚雷艇でダバオの病院へ送つた,僕達はその まま前進基地に歸つた。 戰死した二人はその晚火葬にふし,その骨灰は歸還後,故鄉 の遺族に交された。 夕方頃行方不明と思つて居た長岡はジヤングルを大回りして逃げて歸つた,彼の顏 や手足は茨で傷だらけであつた,その話によると水を汲み上げこれをドラム罐に入れよ うとした途端に襲擊され,あわてて石油罐をほつたらかして,素手で麻バタケに逃げこ んだとの事でした。   翌十日魚雷艇基地の守備兵 (魚雷艇員も含む) 二小隊に,僕等警察隊と三小隊の中 隊を組み,夕やみ迫る頃,北方約二十KM奧のゲリラ本部に向つて討伐を敢行した,昨 日の復讎である。 黑暗の中を靜かに音を立てずに行軍を續け,大休止に路旁の草原で 假睡してると,真暗やみの中で見えないなのか,體のデッカイ水兵が軍靴のままで腹の 上を踏みつけて行つた;ウワッと吃驚りして目が覺め,又進軍を續けた。 敵陣に接近 しつつあるので,尖兵を前方と左右兩翼に各一人づつの警戒で進んで行つた。 午前二時頃,土民の住宅に接近發砲せずにこれを圍み土民二人を捕虜にした,室內 に入つたら土民の,母親が娘を下に庇つて床に伏せてるのを見た,多分娘を強姦から守 る樣子であつた,娘を見たらブスであつた;誰が粹狂に,これに興味を持つであろうか ,笑止千萬である。 僕は中隊長 (海軍大尉,名前は忘れた) の命にて,繩で縛りつけ た二人の捕虜を預り,その繩先を摑まヘて又も奧へと進軍した。 午前五時頃,ゲリラ本部に拂曉攻擊をかけた,彼我の戰鬥は激しく,重機關銃、步 兵銃に,敵のキャピン銃との綜合銃聲は谷間に響き渡り,頭上を雨の如く飛び交う無數 の銃彈に,怯えたのか二人の捕虜は,尻を高く上げて伏して居たのを「危い!」と正し てやつた。 そうしないと永松みたいに,尻に大穴を開けられたであろう。 僕はこの 二人の繩尻を摑んであるから射擊はしなかつた。 對戰中,中隊長が左翼に居た長澤達に:「背後に向つて一齊射擊をせよ!」と命令 を下したが,彼等は無中に射擊をして居るので,聞こえないらしい。 僕はその命令を 大聲で傳達したら,彼等はこれに應じて背後の麻バタケに向つて一齊射擊をやつた,敵 の迂回作戰を防ぐ為であつた。 實戰に參加したのはこれが始めてであつた。 約二時 間半で交戰は終り,ゲリラは,又奧ヘと逃げて仕舞つた。 その本部に入つたら血痕が 所所に見られたが,屍體は見かけなかつた;多分負傷者をも伴なつて逃げたのであろう ,馬を一匹鹵獲した。   歸還中,白晝の平原にて大休止の時,兵長 (名前も忘れた) と僕が路旁で後方を 監視中,雙眼鏡で遠くから土民の夫婦連れが,何も知らずに近よつて來たのを發見,こ れを兵長に知らせて待機し,近づいてから,僕等は草叢より跳び出して,搜身をしよう としたら女は突然手籠の中から,ボロ (フイリッピン語の小刀) を取り出して振り上げ 切りかかつて來たので,兵長はその女に向つて九九式小銃で二發射ちつけこれを殺した 。 男は後退の姿勢で麻バタケの中に逃げこんだのを,僕は腰に銃を當てて三發放つた が男は逃げて仕舞つた。 その後を追つたら麻バタケの地上に血痕が殘つてるのを見て ,多分負傷したのであろうと思つて追いもしなかつた;若しも銃を肩にして狙つたら命 がないから,わざとそうしなかつた。  歸路二人の捕虜は,中隊長の命令で,その儘放して仕舞つた。 この討伐には味方 は幸いに何の損失もなかつた。  ある日,椰子バタケの周邊で立哨中,東北方から海岸沿いに低空でB25が目の前 をダバオに向つて飛んで行つたのを見た。 黑い胴體と乘組員の顏がはっきり見えた。  その夕方頃,米機一機がササ飛行場の二式雙發夜間戰鬥機「屠龍」に擊墜され,サマ ル島のこちら側に墜落,搭乘員が一人海上に浮んでるのを遙かに見かけたが魚雷艇基地 は何等の行動もなく,一時間足らずに米空軍の救助飛行艇が飛來し著水してこれを助け て歸つた。 この光景を目の前に見て感慨無量でした。 なぜならば世界各國の飛行士 の養成には,どの國も同じく相當な費用と時間を掛けて居るので,飛行士を大事にして 居り,この樣な時には萬難を排しても,救助作業を敢行するのに反し;日本空軍は戰爭 に勝つためには,非常手段だと,かこつけてその精銳を戰場に狩り立て,特攻隊迄をも 編制し,これを犧牲にして惜しまないとは,無茶な事だと思う。  戰況は日一日と惡化して來た,ポィントリナフ前進基地は,寂しい所なので消息は 只魚雷艇基地方面から,時たまに聞けるだけであつた。  昭和二十年三月十六日,腹の具合が惡いので別舍の土民の殘した小屋にて休憩して 居たが,食慾は全然なかつた;それから腹の痛みが加はり下痢も始まつた。 そこで約四、五日一人で苦しんで居たが,少し痛みが輕くなつたので起きて外の椰 子林を眺めて居ると,遠くから約半M程のトカゲが天下は我一人だとの恰好で頭を左右 に振り向けながら四っ足を,スロ∣.モ∣ションで這つて來た。 床下を通つた時,摑 まへようと思つたが腹が痛いから止めた。   小隊長は,僕の苦痛を見かねて福田に付添いを命じ:「病院に入院して治療せよ」 と言はれた。 同月二十二日晝すぎ簡單な行囊 (故鄉から持つて行つた大部分の所持品 は基地に殘したが,其の後基地の撤退で,皆に處分されて仕舞つた,大事な日記帳も水 兵達が互いに見せ回つた後,なくなつたとの事であつた) を整備して,魚雷艇基地に渡 り魚雷艇にて,約三十分の航程でダバオ市のサンタナ棧橋に上陸,ここで黑い船體の特 殊潛航艇二隻が碇泊してるのを見た。 それから道行くトラックを呼び止めてカリナン 病院へと便乘してもらつた。 トラツクは真新しく海軍の一等兵曹が操縱して居る,途 中口が乾いたので,福田から椰子の汁をもらつて飲もうとしたが,その兵曹は僕の病狀 を聞いてるので:﹁お前,死ぬ氣か﹂と叱つて止めた;同じく戰地に居て病に罹つてる のを,同情しての叱りかたであり,又車の速度も病情に影嚮せん樣にとゆつくりと走つ て下さつたので心から感謝して居た。  午後五時頃,カリナン病院に入院,早速血液を取つて檢查したら,なんと白血球數 七萬八千の國際單位で盲腸炎と腹膜炎の併發と確認した;その他體溫、血壓も檢查した が平常であつた。 病院には多數の琉球邦人の少女達が,看護婦として勤務して居り, 背丈は低いが可愛らしかつた;彼女達の親切な看護が嬉しかつた。   ここで一泊して,翌二十三日の朝食後,トラックでラパンダイ外科分院に送られた。 その午後の二時頃,海軍軍醫大尉茂呂 肇先生 (分院の院長を兼ねてる) の主治に, 齒科の金子軍醫大尉の助手で手術することになつた。 先づ脊椎骨に麻醉劑を注射し,半身麻醉の情態で手術が始まつた;兩手を頭上の支 柱にガ∣ゼで縛りつけ,室長松下兵曹がそこに配置されて僕の表情を觀察し,手術中苦 痛に耐えかねて額に汗を出してるのをガ∣ゼでふいて下さつた。 半身麻醉とは言ヘ, 手術刀をザクッと入れた時の痛みは終生忘れられない。 茂呂大尉が手術の經過を一一 口述して居るのも一字一句分つて居た。 一時間、二時間と時が立つ,大尉の話によれ ば,盲腸は已に腐敗して腫れ上つて居り,その周圍に贅肉が覆い被さつて居て,盲腸が 見つからんからその腫れた贅肉を切り除いた後の盲腸切除であつた。 餘り時間がかかつたので,大尉は冗談にレコ∣ドでも掛けようかと申された程であ つた;その後四時間と三十分を經て,ようやく手術を完了,傷口の腹膜、表皮とを別別 に縫合し繃帶を卷いて病舍に轉された。  手術中,窗外に三、四人の隊友が見て居た,事後彼等の話に依ると,切り取つた贅 肉は約一五0gもあつたと言う。 この病院で入院治療中はアッぺ手術患者に再度の傷害を與えない樣にと,鐵架を腹 上に被せて保護して居るので看護兵はこれを持つて來て使つた。 その翌日手術前の腹 痛にて小量の食事しか取つてない上に,手術中の出血で水分不足を來たし,飢渴で堪ら なくなつたので,茂呂大尉に報告したら大尉は看護兵長に:「二五0CCのリンゲル注 射をしてやれ」と命じた;兵長は早速藥材室から好意に五00CCのを一本持つて來て ,股間の筋肉に,その太い注射針を刺しこみ,熱いタオルで太股に濕布し輕くさすつて 吸入を早めた,これを約一時間半もして下らさつたら飢えも乾きもスッと消えて仕舞つ た。   茂呂大尉達は,四時間半もの立續けでの作業,その苦勞とその崇高な醫德に心から 感謝し,終生忘れられない。  手術後,腹內の腐敗部分が又化膿し膿が滲み出て來るので,腹膜と表皮の縫合線を 全部拔き去り,傷口を開けた儘の治療で有つた;それから數日後,膿が滲み續けた。 時が立つにつれて,傷口は癒合し始め,筋肉の排泄口を封じて仕舞い,膿が腹中に溜り 腹が張つて具合が惡かつた。 それを見て看護の兵長は,探子で傷口の筋肉にプスッと 突きこみ,吐き口を開けて,膿の流れを容易にした結果,腹がスッとして氣持がよかつ た;朝夕二回のガ∣ゼの取換えに,これを數日間膿が無くなる迄續けた,この樣な治療 なので治りは遲い;お蔭で恢復後,右下腹部に長サ九CM、幅一.五CMの大きさの傷 痕を殘して仕舞つた。  茂呂大尉は廊下を通るごとに,外から:「和田君,飯をうんと食べろよ」と呼ばれ た;親切な看護であつた。 食慾があれば,治りが早いからでした。   入院中,八年間も御無沙汰して居た,故鄉の恩師向井 勇先生が戰地の行政官とし てこのダバオに來て居り,僕の入院を聞いて突然御見舞いに來られ本當に嬉しかつた, 初めにフイリッピン名產の營養價の高いアボカ∣ド二十箇を戴いた。 向井先生にもら つたアボカ∣ドは熟してから,その中みの黃色い肉を搔き出し砂糖をまぜて食ベるのだ が,砂糖は病院では手に入らんので,廣田に賴んで大隊本部に參り,重田大隊長から一 斤ばかりの赤砂糖をもらつて來た。 廣田の話に依ると,大隊長は,僕の病狀を聞いて :「惜しい若物だ」と言はれたとの事でした,多分大隊長は僕は助からないと思つたの であろう。   その後,向井先生は二度目の見舞いに僕の無聊を察し日本小說「坊ちやん」、「 小說集」の二冊を持つて來て下さつた;その二冊を一日で一氣に全部讀んで仕舞つたが ,これからが大變だ,全身の神經を頭上に集中したので,下腹部の神經がにぶり,尿の 排泄が出來なくなつた。 夕方迄はどうにか我慢が出來たが,夕食後尿意が激しく耐ま らなくなつたので,福田に賴んで室長に助けを求めた。 五分間たらずで,室長松下兵曹が看護兵を一人共なつて參り:「おい和田!御飯の 後なのに...」とぐちを溢し乍らも,早速導尿の處置を取つて下さつた;導管を插入 する時,太い奴が入らんので室長は冗談に:「なんだ,又童貞か」と言つて細いのを換 えて使つた;插入後,室長は下腹部の上から膀胱を輕くさすつて尿の排泄を早めた,約 十分間位ですんでホッとした;導尿後は正常でした。 これに懲りて,病中は讀書をし ないことに決めた。 二月十九日硫黃島に米軍上陸,一箇月餘の大激戰にて,とうとう三月二十七日に玉 碎,駐屯兵二萬餘人の戰死を聞く。 病院でのニユ∣スは早い,愈愈戰況は甘ばしくな い。 米軍がミンダナオ島西北部のコタバトに上陸後戰況緊迫,我方に不利との報に接 し,四月六日病院は約十二KM奧のバンロック病院に移ることになつた。 僕は寢たま ま病院のバスに醫療器具が一パイ積まれた上に寢かされて轉進した,所が途中で米空軍 のB25輕爆擊機とグラマン戰鬥機の空襲に會い,運轉手は慌てて路旁の溝に車の前輪 を乘り入れてエンコして仕舞い皆四方に退避したが,僕は動けないので只一人車內で米 機の急降下爆擊と,グラマン對ゼロ戰の空中戰を遙かに仰ぎ見ながら,運を天に委ねる 外なかつた,幸いに僕の乘つたバスは襲擊されなかつた;空襲解除で皆無事に戾つて來 て,一同でバスを路上に移しバンロックに向つた;著いたのは午後の五時半頃でした。   ここで約二週間休んだが,米軍迫りつつあるので又も約十二KM奧のダツプイに進 んだ,今度は琉球の邦人達八人で交替にて擔架で僕を送り約二時間程でついた。 この 病舍は約五十坪もある廣い平屋で板敷きの木板床でした,兩側に個人用の寢具を並べて ,傷病兵合せて約六十人もあつた。 僕は末端第二番の床を分けられた,左一番は左胸 部に貫通銃創を負うた兵曹であつた,傷口は前胸部から背中に貫通なのだから,呼吸す るごとにシュウシュウと音を立てて居る。 普通に寢ることも出來ず毛布を四、五枚疊 んでその上に頭を伏せて寢て居た,彼氏は平常酒好きで,撤退中酒の中絕に誤まつて工 業用アルコ∣ルを飲んだので,盲目になつて居た。 同室の向う隅に,海軍工員が居た,その付添いは,朝鮮の若者で「金」と呼び,平 常その工員に對して餘り親切ではなかつた。 又も撤退となつたので,病院當局は重態の傷病兵全てを,モルヒネで安樂死させて 仕舞う事にした。 その撤退の前日この行動が開始された。 鄰の兵曹とその工員もそ れぞれ一針注射された,兵曹が注射された直後,僕が:「どう感じるか?」と尋ねたら 兵曹は:「目先がチラチラする」と言つて,その儘息を引き取つた;數分後,看護兵が 來てその兵曹を普通になほして寢かせた;その晚僕はその死んだ兵曹と一晚鄰合つて寢 てたが,なにも怖いとは思はなかつた。 翌朝三時頃向う側で:「金さん...、金さん...」と呼んでる聲を聞いた,確 かにモヒを注射された工員が復活したのであつた。 その鄰に寢て居た朝鮮の若僧「金 」はその呼聲を聞いて,工員が鬼に化けて出たのかと,身を震るはし,ガタガタと床板 を鳴らしてるのをかすかに聞いた;平常不親切に對しての,復讎に出たのかとおそれた のであろう。 看護兵は直ちに普通の二倍のモヒで,この工員を解決した。 この撤退 緊急處置にて,十數人の傷病兵が安樂死で處置され,皆火葬にされた。   五月十二日戰況緊迫,又も約八KM奧の下クヮボに轉進,今度は台灣工員同鄉達八 人が交替にて僕を擔架で搬んだ,工員達には本當に苦勞を掛けた。 病舍はもと邦人が ,フイリッピン式に立てた立派な家屋でした。 ここで約一週間餘り居たが,漸く坐れ る樣になつた。   ここの日中は米軍のセスナ型彈著觀測機が頻繁に偵察に飛んで來て,附近に砲彈が しよっちゆう落下して居たが,病舍は安全でした。   五月二十日又も轉進,今度はその奧約七KM先きの上クワボでした;步けられるの で徒步で杖を賴りに登つた,山はいよいよ險しくなつて來た。 ここの病舍は,川邊の 山腹にトタン板で架設したバラック小屋であつた,勿論門も窗もない。 山中の川邊なので水も清く景色も美しかつた,この水で久しぶりの洗浴,冷たい水 で長いこと溜めた垢を洗い落したので,さつぱりして氣持が良かつた。 ここにて手術 後滿二箇月を迎えた,傷口は完全に治つたので,步行を每日強めた。   米軍の砲擊はいよいよ接近して來た,又奧の約八KMさきの第一分岐點に,杖でゆ つくりと登つたが大丈夫であつた。 ここの病舍も同じくバラック立てでした,ここで も三週間餘り居た。   七月二日,又も奧の第二分歧點に進み,一番奧のイクタモリ (生田森) についたの は,七月下旬頃であつた。 ここは山も高く標高約一千五百M程であろう,朝夕の氣溫 の差は甚だしく濕氣も重い,夜中は攝氏五度位あつたでせう,幸いに良質の海軍毛布三 枚も持つて居て,寒氣の嚴しい夜は一枚敷いて二枚は重ねて被つたから耐えられた。 時隅鹿の鳴き聲が聞こえる程の山奧であつた。 朝、晚外の灌木林の小道を通ると 木の葉の上に棒見たいに立ち,吸盤の先端を空中で左右に動かして動物に吸いつこうと する無數の尺とり蛭は,時隅小屋にも入つて來るので,充分に注意しないと身體にくつ ついて生血を吸はれる。 僕は幸いに海軍病院と一諸にての退避なので食糧物資には欠かさなかつた。   正式の退院はしてないが警察小隊に入り,彰化の武田と共に別棟のバラック小屋に 住みこんだ。 この小屋は約二十數人住めるが,僕等二人だけで居た。 每日の三食は 約五十M上にある病院の食堂に行つて食べて居た。 ここでは警戒配備をしないのでよ かつた,山奧だからである。  それで日中は暇なので,三食以外に充分な食糧を利用して,武田と二人でいろいろ と料理して食べた;每日只食べるのみが樂しみであつた。 稀には物好きに高さ三.五Mもある蛇木を切り倒して,その先端の中身を削り出し て,それを煮つめ砂糖をまぜて食べたのも面白かつた。 一日九食とはこの時の事であ つた。 有る日の最夜中,武田と一しよに黑やみのなかを三十M先の食糧倉庫に忍びこ み,食糧をギンバイ (軍隊用語,小盜みで「貓糞」とも言はれ默認されてる行為) をし に行つた;素足で行つたので,歸り道に左の足裹が銳い竹の切株に刺されて出血をした ,早速應急手當で血を止め;翌朝醫療室に參り室長松下兵曹に二針縫つてもらつた,今 でもその傷痕は又殘つて居る。   昭和二十年八月六日米空軍B29ボ∣イング重爆擊機により廣島に,米國の新兵器 原子爆彈が投下され,二十數萬人の死亡者を出し,續いて八月九日に長崎にも一箇,こ れが日本の降伏を早めたのであろうが,僕等には何も知らなかつた。   九月十五日,茂呂大尉と武田、僕と三人で閑話しをしてる時,大尉が:「今後君達 は主人になるのだ!」と言はれたのに吃驚した。 更に詳しく尋ねたら大尉は:「天皇 陛下は八月十五日の正午,聯合國に對して無條件降伏を受諾し戰爭終結の詔書を全國民 に下した。 今の台灣は中華民國に返還され,君達は戰勝國の人民となつたからだ.. .」と言はれて感慨無量であつた。 道理で看護兵達は,意氣消沈してるのを感じたが ,この數日間彼等とは何等のこだはりもなく,相變らず仲良く交つて居た。 さすがに レベルの高い醫療部隊の兵員達であるのに感服した。   九月二十日,佐佐木小隊長からの連絡で下山する事になつた。 早速行囊を整備し て,武田と共に茂呂大尉達にお別れをし,第二分歧點の佐佐木小隊に來て相談の結果, 僕と武田と二人で先行して米軍基地に全員の投降連絡をしに下山する事になつた。 翌日武田と共に下山し米軍の新しく設置したダップイ基地に到著,小銃と所持の帶 劍、彈丸等の武器を基地前の空地に置いて營舍に入り通譯を通じて係の將校に連絡をし た。 その結果明朝九時頃,全員下山して投降する事に決定した;それから僕達は素手 で再び山に返りこの消息を傳ヘた。 九月二十二日,小隊全員が下山し投降手續きを終了して全員直ちに大型ジ∣プで約 三十KM下のダバオ市附近の平地捕虜收容所に送られた。 この三十KMの區間は,戰 前小道であつたのに,米軍の戰勝後,二十M廣さの平坦な舖裝道路となり,大型ジ∣プ が時速九十キロのスピ∣ドで走つて居た;米軍の戰略物資の補給能力はこんなにも高い のかと驚いた。 下山中,米軍のC46ダグラス輸送機が空中で,DDTを散布してる のを見た;道理でもと蠅や蚊の多いこの地方なのに今は全然見えなくなつた。   キャンプを分配する前に,全員の所持品一切を放棄し,これを燒卻して仕舞うこと になつた;逃避中は不潔で,蚤や虱がくっついてるから,これを一切火で消滅して仕舞 うのである。 それから縱列で倉庫に入り,新しい米式食器一組と,日本陸軍の毛織の 新しい軍服一著,軍靴一足,內、外衣一そろえ,米製カ∣キ色の作業服一著,毛布一枚 とを配給してもらい,キヤンプに入つた。 このキヤンプは,一千餘人も收容して居り,僕等海軍巡查八十數人以外は,皆陸軍 の兵員と陸軍の勞務奉公隊員 (すべてが台灣人で,別稱「タイワンウシ」で戰地にて兵 達に,牛の樣に酷使されたからこう呼ばれた) であつた。 每一箇所のテントには行軍 べットが二十箇づつ兩側に並べてあり,人員四十人がここで起居することになつた。 ここで約二箇月ばかりを過した。  キヤンプ內の大便所は,露天の廣場にドラム罐三箇を豎にして土中に埋め,その上 に中央に尻を坐らせる大きさの穴を開けた四角い木板を置いた,簡單な便所で見とほし である;この樣な便所が十數箇一列に並んで居た,この樣にしたのは,明らかに捕虜の 監視に必要で有つただろうと思う。   僕等がキヤンプに入つた當時は服裝は整い配備も立派なのか,その初夜,隊員の新 しい海軍用防暑鞋が紛失した。 翌朝動員でキヤンプ內の各テントをくまなく搜查した 結果,有る陸軍上等兵の床下からこれを搜し出した。 早速取り返し制裁を加へたら, 旁觀して居た體格のデッカイ髭面の陸軍伍長が不服なのか,ロを入れて干涉した;さあ これが隊員達のシャクにさわつた:「よし貴樣不服なら一しよに制裁してやる。」と皆 でこの「伍長殿」をも制裁して仕舞つた。 この行動がキヤンプ內一千餘人の耳に傳り,これからが大變だ。 キヤンプ內の陸 軍勞務奉公隊の隊員が十數名來て,兵達に苛められたのを訴えて來た;それで警察隊員 の物好きな連中が,一一これを取上げて,相手の兵を探し出しては,彼等に代つて制裁 をし,その氣をはらした。   日本兵達は敗戰の痛みなのか,これらの制裁行為には何等の反嚮もなかつた。   フイリッピンでは,陸軍の裝備は,海軍のと比較にはならなかつた。 例へば僕達 警察隊にしても,一小隊四十數名に,艦上專用の精巧な空冷式機關銃が一挺、各員米製 の三0式步兵銃 (五發裝填,遊底は三八式や九九式步兵銃より輕く又操作も早い,先き 程のゲリラ討伐行に,兵と僕の緊急射擊彈數にても立証できる) 一本に,彈丸は三千發 と言う調子ですが;陸軍兵士には,竹槍を持つて居るのを,見かけた人もあつた,それ に食糧補給の欠如で,飢餓と寒さで,路旁に死んでるのは,ほとんどが陸軍の兵士達で あつた,生殘つて投降した者達も,大部分は瘦せ衰ヘて居た。 敗戰とは慘めな事であ つた。    ここで有る一日,一人の工員が大便をしてるとき,その木板の上に坐りもせず腰を かがめて用を足してるのを,立哨して居たフイリッピン兵がシャクにさわつたのか,キ ャピン銃でパ、パ、パ∣ンとその工員に向けて打掛けた。 その彈丸が工員のぶらさが つてる陰囊に的中,きんたま二箇の中一箇は木っ端みじんで行方不明,殘り一箇はぶら りと又たれさがつて居た。 銃聲を聞いた隊員達は,急いで負傷した彼を醫務室に運んだが,そこに居た陸軍軍 醫は冷淡で相手にもして吳れない,麻醉劑は有るかと聞いても:「無い」と言つた。  同鄉の通譯はこれを見て至急電話で米軍の病院にこの負傷の經過を告げたら,十分間足 らずして大型ジ∣プで,何んと男女合せて十數名の軍醫が驅けつけた;有る者は麻醉劑 、手術用器具等を探し出して準備をし,有る者は工員がシヨックにならん樣全身にマッ サ∣ジをしたりして救助に當つて居た,約四十分間の手術で,傷口の縫合を終えテント に送り歸された。 陸軍軍醫と米軍軍醫の醫德の高下がここで比較された,同じく日本の軍醫官であり ながら,なぜ海軍と陸軍の素養がこんなにも違うなのかと情なく思つた。 發砲したフ イリッピン兵は,その場で武裝解除され拘留された。   このキヤンプに來てからは每日の晝間,捕虜全員は港の波止場にジ∣プで勞役に送 られ,山の如く積んで居る米軍剩餘物資の整理をしに行つた。 一番樂な所は罐詰の山 であつた,僕は紙切りナイフに鐵片を卷きつけた開罐の工具を造り,波止場に來る度に ,このナイフで罐詰を開けて皆で食ベた。 米軍の物資は種類が數多く大小樣樣で何ん でもあつた,煙草も數種類あつた。 配給にもらつた捕虜の制服は米軍のカ∣キ色の布地の厚い作業服で,その上著の背 中とズボンの兩膝にそれぞれ黑いぺンキで大きくPW (略稱POW「PRISONER OF WAR 」) と書いて識別して居た。 そのズボンは長かつたので,末端を內側に折り入れ,針 で四箇處縫いつけて內ポケットとし,波止場勞役に行く每に干葡萄から煙草や小さい罐 詰等を,その中に隱して持ち歸つた。 有る日,この波止場にて第五教班長が僕らの後をついて來て僕に:「どこかで見た 樣だ」と言つたが,一目見てこの瘦せこけた人が訓練中,あんなにも亂暴苛刻な人だと は思ヘなかつた。 改心棒をくらつた隊員連中は治まらなかつた,人目の少い所迄來て 十數人で立ち會つて仕返しをした;この樣に第二、三、六教班長もやられた;隊員達の 復讎でも有つた。 米軍の監視兵はこれに對しては,何等の干涉もしなかつた。 ここの監視兵は皆若く近づき安いので,その二、三人と簡單な英語に手ぶり身ぶり で交談したら,彼等も興味を感じ,約四十分間程いろいろな事を話し合つた;別れる時 一本の米製ゴム付の鉛筆をもらった。   昭和二十年十一月十八日復員の命令が下つた,全員大喜びで所持品を整備し汽車で ダバオ港に立つた。 同日午後二時頃,もと內台航路に使つた一萬噸の豪華船「高砂丸 」に上船した,この時も又熱を出して頭がフラフラでした (二年前の台灣.高雄上船當 時と同じだ) ,二等室を與えられたが發熱の為に船室で寢てばかりで景色なんか見られ なかつた。 出航一日後,隊員が船內で先程の醫德のない陸軍軍醫が同船してるのを發 見して,十數人でこの軍醫に制裁を加ヘた。 この為であろうか,預定航路の行先が東 京なのに,とうとう四日後マニラで台灣人全部が下船を命ぜられ,マニラ市より東北方 のクエゾン市 (QUEZON) を經過して約三十二KM先のモンタラバン(MONTALBAN ) 捕虜 收容所に送られて仕舞つた。 これは同年の十一月二十一日のことでした,惜しい事に 東京ヘは行かれなかつた。   この收容所は,ダバオのと同じく一千餘人を收容して居り,ほとんどが台灣の軍人 (もと陸、海軍志願兵) と軍屬 (海軍は海軍巡查、施設部工員,陸軍は勞務奉公隊員) であつた。 收容中每日の晝間は,同じく波止場の勞役にやらされたが,夜は暇なので工員達が 罐詰の空罐で,大小各種の胡弓や大太鼓、小太鼓等芝居に用いる樂器を造り,又偽裝用 迷彩の布で男、女優の衣裳をも造つた,それから台灣芝居に心得のある工員の指導で, 芝居に興味のある若者達を訓練して台灣芝居をやり始めた;これを每晚上演して居たが ,女がないので美男子を,選んで女に化裝さしたら動作も女らしく,全く真の美女そつ くりであつた;芝居の舞台も,間に合はせの木材で立てたが立派なものでした。   每晚八時より,台灣芝居の「唐明皇遊寒宮」や,「西廂記」等を演じて樂しんだ 物である。 僕達幹部は前列の椅子に坐り,露天なので寒いから毛布を肩にしての觀劇 でした,時たま招待係の工員が食器に,干葡萄や飲料を幹部達に配つて居た樣な贅澤な 每日であつた。   昭和二十一年 (西曆一九四六年) 一月八日,愈愈復員の時が來た。 午前九時頃全 員廣場に集合,點呼して貨物汽車でキヤピテに向う。 途中土民部落やクエゾン、マニ ラ效外を通過した時,土民が汽車に向つて石塊を投げつけて來たので,皆かがめて防い だ;無理もない佔領中に相當虐待された﹁國怒﹂の反應でぁつた。    同日の夜,武裝解除された驅逐艦「マキ」、「フブキ」二隻に分乘し出港した。  十八時間程で台灣海峽に到達三角波を突っ走つたが,艦上に上がつたら波のしぶきで大 嵐し見たいなので,全然居られない程であつた;二隻は約二百Mはなれて艦首を並べ, 浪を突破して驀進を續け,なんと二十四時間きつちりに,台灣の高雄港ヘ到著した。  二年振りで懷かしい綺麗な生れ故鄉の土を踏んだ!   驅逐艦がこんなに早かつたのは,多分武裝解除に主砲や、裝備の武器彈藥全部を取 りはずしたから,艦體の重量が輕くなり,普通の最大時速四十浬以上に進められたので あろう。 二年前に,高雄港から輸送船でマニラ迄の航程には四日三晚を費やしたのに ,僕等の一日も早く故鄉に歸りたい氣持ちを察したのか,この驅逐艦はひたすらに驀進 を續けた樣です。 上陸したら高雄市の女學生達が迎えに來て握り飯をわけてもらつた。 歸航中の二 十四時間は船暈いで梅干しを只一粒食べただけなので,空腹時の握り飯は實に美味でし た。 市役所からも台幣十圓 (慰勞金らしい?) を支給され,久しぶりで市內の夜市に 行つて,故鄉あぢのソバ、魯肉飯、魚丸湯、貢丸湯などをたら腹食ベた。 午後九時頃 一同高雄驛に行き急行列車の二等車に入つて一晚明した。 翌日午前八時頃只乘りでその汽車にて故鄉に向つた,汽車は一路北へと走り台南、 新營、嘉義を超えて進んだ時,窗外の景觀は戰火にて目もあてられない慘情で,昔の面 影は全たくなかつた。 二水、濁水の兩驛で乘り換えて,故鄉についたのは午後の三時 頃でした。 父母や姊達、弟も皆無事だつたので本當に嬉しかつた,持つて歸つた所持品の中に ,僕が使つた米軍の軍用毛布は暖かいので 父親に使はせ,米軍の攜帶口糧A、B、C 、D四種各二箇は皆で分けて食べた,米國の煙草赤玉、駱駝、ラッキ∣等十數箇は當然  父親の獨佔物でした。 歸還後體重を量つて見たら六十キロもあつた,多分山に退避 中の一日九食の賜りだと思う。 かヘりみれば,昭和十六年の十二月八日,日本海軍の真珠灣大奇襲にて,米國の正式 參戰となり,ここに第二次世界大戰の幕が開かれ,昭和二十年の八月十五日,日本天皇 のポッダム宣言受諾に依りこの大戰の幕は降された。 この間凡そ三年八箇月と七日の 大戰中,僕等は終戰二年前に,日本海軍警察隊の海軍巡查としてフイリッピンに派遣さ れ,日本軍佔領下の呂宋島、ミンダナオ島の日本海軍駐屯基地、爆彈庫、飛行場、魚雷 艇基地、囚人收容所、無線電信台等の警備と,ダバオ市內の治安維持に攜さわつたり, 報道班員として活躍して來た。 派遣中の二年間,隊員達はよくお互いに助け合い,生 死禍福を共にして來た戰地生活であつた。 これは僕等としても,一生忘れられない貴 重な體驗となつた。 然るに復員後の台灣は,戰禍にて目も當てられない程の慘狀で, 經濟情況も蕭條であつた...。   今の台灣は中華民國に復歸したとは言へ,當時の接收大員の無能な施政にて,物價 暴騰と經濟の不況とで,全島同胞の反感を買い,不幸にも民國三十六年 (西曆一九四七 年) 二月二十八日「二二八事件」が勃發し,台灣の將來を擔う精英である青壯年者の大 多數が犧牲となつた...。   幸いにして台灣の人民は,この大打擊にも弛まず決然として立ち上り,新政府と手 を攜さへ新台灣の建設に邁進して來たこの五十餘年,今では全世界の奇蹟だといはれる 樣な,屈指の經濟大國となつた。 これも全島各地に散在してる,戰場歸りの僕等が戰 地での,倦まず弛まずの精神を充分に發揮し,政府の幹部や地方民意機關、商工業界等 の要職に居て,同胞と共に手を攜ヘ,努力して來た成果だと,堅く信じてる次第である 。 僕は幸いにして戰地で危難に會う度ごとに,貴人の助けがあり,危險を逃れえたの を果報だと信じ,今後共萬事に道德を重んじ惡德な行為には攜さわない樣努力し,社會 に貢獻するつもりである。 この度の戰爭にて,無數の青年が無意の犧牲にされ,龐大な物資が烏有に歸し,親 子妻子の離散にて,社會人性の破壞は甚しく,地方建設も停止し;全面的な損害は莫大 であつた...。 今後共全人類は國際紛爭に面しては,極力野蠻的な戰爭手段を避け,文明的な會談 方式でこれを解決するのを望み,現代世界の永久平和と人類社會福祉の發展を促すのが 我我人類に課せられた崇高な務めだと信じる! 【 後 記 】 戰爭中,ポイントリナフで盲腸炎に罹り,ラパンダイで茂呂海軍軍醫大尉 (神奈川 縣橫濱市人) の主治で手術をしてもらい,入院してからイクタモリ迄の退避中,始終特 別の看護を受け生還でき得たのも茂呂大尉のお蔭だと感謝して居た。 戰後の民國八十五年 (西曆一九九六年) 五月二十二日,長男aaと嫁bbが日本旅 行に行つた機會を利用し,僕の舊日記を持たせ,大尉のお宅へ訪問に使はしたが,日記 中の住所は五十數年前の舊住所なので探しにくかつた。 それで息子は橫濱市鶴見驛派 出所に參上し尋ねた結果,在勤の巡查數人が息子に應待し,その中の若い巡查はすぐに 資料室に入り,目たたくの間に驅け出して來て:「わあ..あつた,あつた,然し茂呂 先生は,已に五年前亡くなられた」と合掌で哀悼の意を表示し,その家族の現住所を告 げてもらつた。 日本警察當局の戶籍資料の完備と,熱心な服務精神に感服して,お禮 を申上げて出た。 派出所からタクシ∣で茂呂先生のお宅迄は約十分間でついた,呼び 鈴で家の中から應接に出られたのは,先生の紀子奧樣と,その娘明子さんでした。 息 子は座敷きに上がつて訪問の趣旨を申上げたら,奧樣は遠い台灣から突然訪問に來たの を大變に喜ばれ,茂呂先生生前の人となりを話し合い,歸りに兩夫妻の寫真を二枚記念 にもらつた。 生前に訪問してお禮を申し上げる機會もなく本當に殘念でした;只只先生の冥福を 遙かに祈るばかりであつた!  戰前フイリッピンで甘苦を共にして來た,軍人、軍屬の先輩諸君,この手記を見ら れて何か御高見があれば,どうぞ僕と連絡して下さい;從軍中の種種の體驗を膝を交え て語り合うのを樂しみにして居ります。 魏XX (和田源一) 手記於自宅 中 華 民 國 八 十 五 年 十 二 月 二 日 *******---------***********-----------**********-------********* 部隊番號:吳港屬第三十二特別根據地警察隊 重田大隊 新井中隊 次郎丸小隊 (九00一部隊 吳局氣付〒43〒22) 期 間:西曆一九四四年二月廾九日 至 西曆一九四六年元月九日 海軍巡查隊の幹部は: 大隊長   重田勝敏 警部 中隊長   新井   警部 第一小隊長 佐佐木  警部 第二小隊長 寺師   警部 第三小隊長 次郎丸德作 警部 (僕の小隊長) 第四小隊長 平島   警部 (台灣.彰化人) 第五小隊長 水野友一 警部 海軍巡查隊の戰友: 陳炳X 松宮泰宏 台北縣永和市人 王添X 玉木 彰化縣北斗鎮人 魏XX 和田源一 南投縣南投市人 李春X 森岡 彰化縣溪州鄉人 李世X 豐田世賢 南投縣草屯鎮人 洪文X 三井榮藏 彰化縣二林鎮人 黃主X 森田博吉 南投縣草屯鎮人 楊炳X 柳川誠次 台中市人 黃X亨 廣田德雄 南投縣集集鎮人 蘇X  武田 台中市人 謝X 村岡亮次  南投縣名間鄉人 周X安 安田 台中市西屯區人 劉X郎 福山次郎 南投縣國姓鄉人 郭X來 廣澤建南 台中縣豊原市人 陳X興 福田榮光 南投縣國姓鄉人 林X岳 桐野 台中縣豊原市人 賴萬X 瀨澤壽一 彰化縣員林鎮人    廖清X 安川 清 台中縣潭子鄉人 蔡三X 清川榮三郎 彰化縣員林鎮人 張金X 清川    台中縣大甲鎮人 蔡X源 大埔源雄 彰化縣鹿港鎮人 謝X水 與謝野 台中縣大甲鎮人 林X庚 元林 彰化縣鹿港鎮人 張X銘 長田    台中縣后里鄉人 林X桐 茂林勇雄 彰化縣和美鎮人 李X珍 台中縣人 施X海 上原建次 彰化縣北斗鎮人 歸台後,海軍巡查隊の戰友で已に亡くなられた方: 張X修 野村修造 南投市人 陳X連 田川    台中縣沙鹿鎮人 林X勳 若林 南投市人 謝X 與謝野  台中縣外埔鄉人 張X修 長澤 南投市人 林X上 木村 彰化縣北斗鎮人 許X廷 清川 南投市人 陳X煌 原田 彰化縣北斗鎮人 洪X發 共田    南投縣集集鎮人 吳X漢 吳 彰化縣鹿港鎮人 曾X來 永松   南投縣集集鎮人 施X哲 大協 彰化縣鹿港鎮人 吳X柏 長岡未雄 南投縣名間鄉人 洪X 三井三郎 彰化縣鹿港鎮人 羅X火 章田 南投縣國姓鄉人 莊X添 古莊 彰化縣竹塘鄉人 張X 長谷川 台中縣豊原市人 詹X松 川村    彰化縣竹塘鄉人 高X輝 高草 台中縣潭子鄉人 廖X城 水野金助 雲林縣西螺鎮人 駐ダバオ海軍病院の分院長: 茂呂 肇 日本神奈川縣橫濱市鶴見區 (日本海軍軍醫大尉) -- ※ 發信站: 批踢踢實業坊(ptt.cc) ◆ From: 218.160.72.239
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rayzart:這要轉去日文版尋求翻譯吧? 10/19 01:28
leibe:很多漢字,還滿好懂的! 10/19 01:29
leibe:直接看也可以懂 10/19 01:29
DJaV:推 10/19 03:08
charogne:這篇太好了,拜讀感激! 10/19 03:36
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mdfmds:看完了,感謝分享 10/20 03:23
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howard0510:雖然我日文年久失修 不過句尾很多つ應該都是促音吧? 10/20 15:59
mdfmds:舊假名即使是促音也是寫成大的つ 10/20 18:45