あらいたはしや敦盛﹑心は猛く勇ませ給へども﹑
ひね武者の熊谷にて﹑事の數ともせず﹑やすやすと取って押さへ申し﹑
甲ちぎってからりと捨て﹑腰の刀を引ん拔いて﹑
首を取らんとしたりしが﹑あまり手弱く思ひ﹑
さしうつむいて相好を見奉るに﹑薄化妝に鐵漿黑く﹑
眉太う掃かせ﹑さもやごとなき殿上人の﹑
年齡十四﹑五かと見えさせ給ふ。熊谷少し押し寬げ申し﹑
「上ろうは平家方にてはいかなる人の君達にて御座候ぞ。
御名字を御名乘り候へよ」。
あらいたはしや敦盛﹑老武者の熊谷に組み敷かれさせ給ひ﹑
よに苦しげなる息をつき﹑「實にや熊谷は﹑
文武二道の名人とこそ聞きしに﹑何とて合戰に法なき事をば申すぞ。
我等は天下の朝臣とし﹑雲客の座敷につらなって﹑
詩歌管絃をのみ長じたりし身なりしかども﹑
此の二﹑三か年は一門の運盡き﹑帝都をあくがれ出でしより以來﹑
武士のいさめる法をば﹑あらあら聞いて候ぞや。
夫人の名乘ると言ふは﹑互の陣にむらがって﹑軍亂れの折柄﹑
矢なき箙を腰につけ﹑鍔なき太刀を拔き持って﹑
これはそんぢゃう其の國の何某﹑たれがしと名乘って﹑
打物の勝負をし﹑又組んで勝負を決するとこそ聞きしに﹑
我は仇に押さへられ﹑下よりも名乘る法とは﹑
今こそ聞いて候へ。あう心得たり。熊谷名字を名乘らせ首を取って﹑
汝が主の義經に見せんためな。よしよし﹑
夫は世に隱れも有るまじきぞ。唯それがしがくびをとって﹑
汝が主の義經に見せよ。見知ることも有るべし。
それが見知らぬものならば﹑蒲の冠者に見せて候へ。
蒲の冠者が見知らずは﹑此の度平家の生捕のいかほども多くあるべきに﹑
引き向けて見せて候へ。夫が見知らぬものならば﹑
名もなき者の首ぞと思ひ候へ。叢に捨て置けよ。
捨てての後は用もなし﹑熊谷。」とこそ仰せけれ。
熊谷あまりのいたはしさに﹑又御顏を見奉るに﹑
嬋娟たる兩鬢は秋の蟬の羽にたぐひ﹑
宛轉たりし雙蛾は遠山の月に相同じ。業平の古へ交野の野邊の狩衣﹑
袖打ち拂ふ雪の下﹑翠黛紅顏﹑錦繡の粧ひを﹑
たとへば繪には寫すとも﹑此の上ろうの御姿を﹑
筆にもいかで盡くすべき。「さては上ろうは﹑
武士のいさめる法をば委しく知ろしめされぬや。
世にも憂きは我等にて候。君の御意に從って身を助けんと思へば﹑
親と爭ひ子と戰ひ﹑はからざる罪をのみ作るは武士のならひなり。
花の下の半日の客﹑月の前の一夜の友﹑清風朗月飛花落葉の戲れも﹑
今生ならぬ機緣と承る。此の度の合戰に人しもこそ多きに﹑
熊谷が參り合ふ事を前世の事と思し召し﹑御名乘り候へ。
御首を賜はって﹑唯奉公の其の忠に後世を弔ひ申すべし」。
敦盛は聞こし召し﹑「名乘らじ物とは思へども﹑
後世を問はんず嬉しきに﹑さらば名乘りて聞かすべし。
我をば誰とか思ふらん。忝くも淨海の御舍弟にておはします﹑
門わきの修理の大夫經盛の三男に﹑いまだ無官を假名にて﹑
大夫敦盛生年は十六歲﹑軍は是が始めなり。
さのみに物な尋ねそ﹑はや首を取れや熊谷」。熊谷承り﹑
「さては上ろうは桓武の御末にて御座有りけるや。御年は十六歲﹑
なにがしが嫡子の直家﹑さては御同年に參って候や。
かほどなき直家﹑見目惡くいろ黑く﹑情けも知らぬ東夷と思へども﹑
我子と思へば不憫なり。あら無慘や直家﹑直實もろともに出で﹑
今朝一ノ谷の大手にて﹑敵稀ゐの三郎が放す矢を﹑
弓手の腕に受け止め﹑なにがしに向かって﹑
『手を負ひて候』と申せしを﹑『痛手か薄手か』
と問はばやと思ひしが﹑『いやいや熊谷ほどの弓取が﹑
仇味方の目の前にて問ふべきか』と思ひ﹑はったと睨んで﹑
『あら言ふに甲斐なの直家や﹑
其の手が大事ならばそこにて腹を切り候へ。
また薄手にて有るならば﹑仇と合うて討死をせよ。
味方の陣を枕とし﹑私の党の名ばしくたすな』と言うてあれば﹑
真ぞと思ひ﹑なにがしが片をまた二目ともみずし﹑
仇の中へ驅け入ってより後は﹑其の行衛をも存ぜず。
さても熊谷﹑この度の合戰につれなく命ながらへ﹑武藏の國に下りつつ﹑
直家が母に會ひて討たれたると言ふならば﹑甘露の母が嘆くべし。
經盛とやらんの﹑花のやうなる若君を渚に一人殘し置き﹑
さこそは嘆かせ給ふらめ。經盛の御愁嘆と﹑
さて直實が思ひを﹑物によくよくたとふれば﹑流水同じ水なれど﹑
淵瀨に變るごとくなり。よくよく物を案ずるに﹑
此の君の御首を賜はり﹑直實が恩賞に預りてあればとて﹑
千年を保ち﹑さて万年の齡かや。末代の物語に助け申さばや。」と思ひ﹑
「いかに敦盛﹑平家方にて仰せらるべき事は﹑
『武藏の熊谷といふ者と﹑波打ちぎはにて組みは組んで有りつれども﹑
我子の直家によそへ﹑助け申して候』と﹑御物語候へ」とて﹑
取って引っ立て奉り﹑鎧に付いたる塵打ち拂ひ﹑馬に抱き乘せ奉り﹑
直實もともに馬に乘り﹑西をさいて五町ばかり行き過ぎ﹑
後をきっと見てあれば﹑近江源氏の大將に﹑目賀田﹑馬淵﹑
伊庭﹑三井﹑四目結の旗ささせ﹑五百騎ばかりで追っかくる。
弓手を見てあれば﹑成田﹑平山控へたり。右手を見ければ﹑
土肥殿七騎で追っかくる。上の山には﹑御大將判官白旗をささせ﹑
御近習にとっては﹑武藏坊弁慶﹑常陸坊海尊﹑龜井﹑片岡﹑伊勢﹑
駿河﹑此の人々を先として﹑聲聲に申すやう﹑
「武藏の熊谷は仇と組んづるが﹑既に助くるは二心と覺えたり。
二心なるならば﹑熊谷共に討ち取れ」と﹑
我も我もと追っかくる。此の君の有樣﹑
物によくよくたとふれば﹑籠の中の鳥とかや﹑
網代の冰魚のごとくにも﹑漏りて出づべきやうはなし。
「人手にかけ申さんよりも﹑直實が手にかけ﹑後世を某弔はばや」と思ひて﹑
又むづと組んで﹑どうど落ち﹑
いたはしや御首を水もたまらず搔き落し﹑目より高く差し上げ﹑
鬼のやうなる熊谷も﹑東西を知らず泣きゐたり。
略譯:
雖說敦盛一直想反擊熊谷,但是熊谷身經百戰,
非常輕鬆的就化解了敦盛的攻勢、把敦盛壓倒在地。
熊谷迅速的剝下敦盛身上的鎧甲,一邊拔出佩刀、打算取下敦盛的首級,
不過熊谷卻對對手的文弱感到訝異,於是熊谷低下頭去、想看看敦盛長什麼樣子。
一見之下,只見敦盛臉上薄薄的敷著粉、牙齒也用鐵漿染黑、
眉毛刻意的畫粗了,看來不過才十四五歲,應該是貴冑子弟。
熊谷稍微放鬆壓著敦盛的手勁,開口問著敦盛:
「我看您應該是平家哪位大人的公子吧?請您自報您的名字吧!」
可憐的敦盛被熊谷壓倒在地,苦惱的嘆了口氣之後開口:
「我也聽過熊谷大人的大名,也知道您兼擅文武二道,
但是今日您怎麼對我說這種不合武士情理的話?
我平家之前是天下的霸主,一家盡是貴族,只懂得玩賞詩歌管弦;
但是這兩三年家道中落,一家逼不得已的只得離開京都,
我們這些年輕一輩也才開始學習武士的規矩作法。
我聽說:自報姓名,往往是在兩方混戰之中,
彈盡援絕之時,才能拔刀出鞘、自報姓名,與敵方一決高下。
像我現在這樣,被敵人壓在身下,豈有自報姓名的道理!
你就把我的首級帶回去、讓義經過目吧,我想他應該知道我是誰;
若是他不知道我是什麼人的話,就把我的首級拿給蒲之冠者(源範賴)看;
萬一蒲之冠者也不知道我是誰,這次大戰平家必定有不少人被俘,
就把我的首級拿給那些俘虜看,你也就知道我是誰了。
要是沒有半個人知道我是誰的話,你就當你殺了個無名小輩,
隨便找個地方把我的首級丟了就算了。」
聽了敦盛的話,熊谷不禁對敦盛的遭遇生起惻隱之心,
再度開始打量起敦盛的長相:
只見敦盛的鬢角薄如蟬翼、雙眉宛轉如同天際新月,
身上穿著高雅的錦衣,加上年輕美好的容顏、一身華麗燦爛的裝束,
就是再怎麼高明的畫匠,也無法把眼前這年輕人的美貌給畫下來。
看著敦盛,熊谷開口:
「唉,看樣子公子您還不完全懂得武將的規矩作法啊!
我們武士的宿命,就是造下數不盡的業障。
但是不論是共同賞花玩月般短促的一夜之緣、
或者是在觀櫻賞楓的時候錯肩而過,也都是前世就注定好了的因緣;
這次參加這場戰事的人如此之多,卻偏偏是由我遇上了您,
就請您告訴我您的大名,讓我以後能在取下您的首級之後,
還能將您的名字流傳後世、讓後世的人為您的忠誠感動。」
「我原本不打算報名字、不願讓後世的人知道我是誰,
既然你如此堅持的話,我就告訴你吧:
你以為我是誰?我是修理大夫經盛的三子,無官大夫敦盛,
今年十六歲,今天這是我的初陣,你應該沒有話要問了吧?
快點殺了我吧,熊谷。」
聽到敦盛的話,熊谷兀自思索了起來:
「那麼您就是平家人了!您今年十六歲,正巧與我的兒子同年紀。
雖說我的兒子直家與您同年紀,但是他長得其貌不揚、又黑又醜,
雖說我是個不懂人情世故的東國人(那個時代,東國=落後),
但是一想到那是自己的兒子,我還是會為他覺得難過。
我那可憐的兒子今早跟我一起參戰,卻被敵將給射傷了左手,
他那時對我說:『我的手受傷了。』
我本想問他:『傷勢重還是輕?』
但是一想到我身為武士,怎麼能在大庭廣眾之下問兒子這種問題,
所以我就瞪了他一眼說:『你在這兒抱怨什麼?
如果手傷那麼嚴重的話,那你乾脆在這兒切腹算了;
要是不嚴重的話,就去跟敵人互砍而死吧!千萬別丟光我們熊谷家的面子了!』
說完以後,我再也沒有正眼看過我的兒子。
今早他跟我分開了之後,我也不知道他現在人在哪裡、還平不平安,
而且雖說我說得這麼乾脆,但是要是直家真的死了,
我回到武藏、告訴直家的娘(直實的夫人)這件事情,
想必直家的娘也會悲嘆不已吧?
經盛大人想必也是一樣:把您一個人留在這兒,
經盛大人一定也非常的擔心吧?
天下父母心,要是由我來打比方的話,
經盛大人的擔憂必定是如同涓涓細流一般的綿綿不斷、
又像細流匯集成大海般的無窮無盡。
況且就是取了您的首級,我得了什麼賞賜,
這賞賜也不可能千年、萬年都不變啊!
既然如此,我還不如救您一命。」
想到這兒,熊谷便開口對敦盛說:
「雖說您是平家的人,但是要是我跟我的兒子一起為您求情,
想必能為您保住性命也說不定。」
說著,熊谷扶起敦盛,替敦盛拍去身上的塵土之後、便抱著敦盛上馬。
兩人同乘一馬的向西走了不過五町(約500公尺),
背後出現了五百騎的追兵,左手那兒也來了兩支人馬、
右手那兒也有許多追兵,山頭上揚著大將義經的白旗,
義經的親衛大將通通都在山上,一邊大呼著:
「武藏的熊谷是不是跟敵人聯手了?既然放過敵人不殺,
那就是有通敵之心了!如果真是如此的話,就連熊谷一起殺掉!」
一邊喊著,追兵越逼越近,此時的熊谷與敦盛真的是籠中之鳥、
網中之魚一般,想逃也逃不掉,
「與其讓他們殺了敦盛,不如由我動手,以後也由我祭祀他吧!」
想到這兒,熊谷再度抱住敦盛、兩人從馬上滾下,
敦盛的首級從頸子上滾落,熊谷高舉敦盛的首級過眼,
而鬼一般的猛將熊谷也早已哭得不辨東西。
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信玄が日本最強の軍團といわれるまで育てあげた武田軍團が
どうしてこんなに簡單に亡んでいたか
勝賴が惡かったのか﹑御親類眾が惡かったのか
それとも側進が惡かったのか......
それを見つづけていた甲斐の山々は今も默して語らない
~武田勝賴終章
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