※ 引述《genica (喧嘩上等)》之銘言:
: 生蕃近藤
: 生蕃近藤の異名ある(花蓮港在住材木商)近藤勝三郎氏は明治二十九年深堀大尉の
: 一行が中央山脈を橫斷し地形調查の為め霧社に入りたる際陸軍顧として一行に加つ
: たがマラリヤの為め途中落伍したおかげで翌三十年一月深堀大尉一行がトロツク、
: タウツア兩蕃の為め全滅の厄に遭つた際氏一人免れ爾來霧社に於て換蕃業(現在の
: 蕃業交易業)を營み、居る事久しくして蕃語蕃情に通じ何時しか蕃人近藤の稱を得
: た程に霧社蕃一帶の蕃人から非常な信望を博し其の後深堀大尉の三十年忌に當る明
: 治四十二年一月には時の警視總長の命を受けて霧社全蕃を操縱し、六百四十七名の
: 壯丁を率ゐ「南無阿彌陀佛」と大書せる白旗を翳して弔合戰に奮戰、月餘にしてト
: ロツク、タウツア兩蕃を膺懲し立鷹方面の隘勇線約六里の間を完成した殊勳の人で
: ある氏は其の後相當の財て花蓮港に下り材木商を營んで居たが其の後も氏に對する
: 蕃人敬慕は已まず今回の事件に當つて「若し生蕃近藤さへ霧社に居たらこんな慘事
: は起らなかつたであらう」ど世間も取沙汰した位だ。
雖然我個人不那麼喜歡近藤氏
但是生蕃近藤算是一個敬稱囉(?)
不過跟前文對起來,你似乎是搞混了
莫那魯道的妹妹嫁的是近藤之弟儀三郎
哥哥娶(後來變成入贅)的另有其人,荷歌社頭目之妹
而儀三郎在婚後數年即失蹤,因此莫那魯道的妹妹即成棄婦
(哥哥勝三郎隔幾年也拋棄妻子)
雖然日方一直解釋,但由於並沒有撫恤使得生活困頓
導致莫那魯道大為不滿,這就是後話了。
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